傷ついた心を癒すのは大きな愛

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公開日時: 2021年5月20日(木) 21:10
文字数:1,923

探しに来た美香は、千尋の顔色を見るやいなや無理やりタクシーに乗せた。

何も聞かない美香に感謝を伝える余裕もないままホテルに帰ってきた千尋は崩れるように座り込んだ。


どれくらいそうしていたのだろう。いきなり携帯が通知音を奏でる。その音に飛び上がるほど驚いた千尋は、億劫な動きで携帯を確認する。

武史から着信だった。

(なんでタケちゃんは……)

武史はたまたまと言えども、こんな計ったようなタイミングで、千尋が望むことを出来るのだろう。

この一週間、SNSでのやり取りはしていたが電話は無かった。明日は武史の家に帰る。今日電話をしなくてもいいはずだ。

千尋はそっと携帯を手にした。


「はい」

『よかった、起きとったか。明日何時の飛行機か聞くん忘れたから教えてや。雨で漁に出れんから仕事休みになったけん、迎えに行くわ』

武史のいつもと明るい声に千尋は沸き上がる感情を押さえきれなかった。

「……っつ。うっ……」

泣くのを堪えようとするが、一旦泣きだしたら止まらない。

せめてもの抵抗とばかりに歯を食いしばるが、そんなことでは溢れ出る感情は収まらなかった。

『堪えんでええよ。泣き止むまで電話切らんから』

武史の言葉に千尋は声が枯れるまで泣き続けた。



いつの間にか寝入っていたようだ。ホテルの目覚ましで設定していたアラームに起こされる。

充電が切れかけていた携帯を慌ててコンセントに差し、武史からきていたメッセージを確認する。


泣きながら寝落ちした様子だったから電話を切った旨と、起きたら連絡が欲しいことが記されていた。

千尋は時間を確認すると、武史へ先にお風呂に入ることを伝え、携帯を置く。

風呂場の鏡を見ると、思った以上に酷い顔の自分が写っていた。

乾いた笑いを浮かべ、千尋は水洗を捻る。

思ったより熱いお湯に打たれている間は何も考えなかった。無意識にいつもより長い間、シャワーを浴びていた。

それが一時的だとしても、千尋には必要な時間だった。



重い体を引き摺るように空港に向かい、適当にお土産を購入した後、早々にゲートをくぐる。

何もする気にはならなかった。食欲もないため、近くの自販機でコーヒーを買い、ベンチに座り込む。

どんな顔をして武史に会えばいいのだろう。

このまま帰ってもいいのだろうか。

考えても仕方ないことがグルグルと頭をよぎる。

それでも考えずにはいられなかった。



(酷い顔しとるな。賭けに負けたか)

迎えに来た武史は千尋の顔を見るなり柳田に心が動いていることを察した。

胸はチクリと傷んだが、千尋にはそんな様子を見せずに普段通りに接する。

強引に荷物を持ち、歩くのもやっとの千尋の手を引いて車まで戻る。

大人しくついてきた千尋は、車に乗るなり武史に謝る。

「ごめん……。ごめんなさい、タケちゃん」

「ええよ、気にせんとき」

何が、とは聞かずに武史は助手席で俯いている千尋の頭をポンポンと撫でる。

それが合図だったように千尋は肩を震わせ泣き出した。

押し殺したように泣く姿が、こちらに来たばかりで心の距離がある頃に戻ったようで切ない。

それでも武史は千尋が泣き止むまで、背中をさすり続けた。



落ち着いた千尋は帰りの道中で躊躇いがちに話した。

バケツをひっくり返したような土砂降りの雨だ。いつもより慎重に運転をする。

幸いにも帰るまでにはタップリと時間があった。



千尋が迷っていることは大きく二つあった。仕事と柳田のことだ。

この町でのんびり過ごしながら翻訳の仕事をするか、東京に戻ってバリバリ仕事をするか。

「産業翻訳をしていれば今は最低限この町で暮らせると思う。だけど、AI翻訳も増えて来ているし、結局は現状維持のままなら先細りする。AIに負けないようにより専門性を高めようと思うと、人脈が必要だなって感じている」

その言葉で武史は千尋が東京に帰ることになるだろうと気づいた。だが本人はまだ自分の心が求めていることに気付いていない。


「この町での暮らしが気に入ったんか?」

「うん。タケちゃんのおかげだけど、ここの方が私らしく生きれる気がする。やっぱり東京では無理していたんだろうね。……その事に気付かないくらいには」

その言葉が無性に嬉しかった。だからこそ、武史は千尋に伝えた。


「選べるんは幸せなことや」

唐突な武史の言葉に千尋は無言で先を促す。

「仕事を選べる立場になるんは、しんどいけどある意味幸せや。自分で人生を決めれるけん。

千尋は今選べる立場なんやけん、選択肢がある内に欲しいもの手に入れときや」

息を飲む千尋に武史は諭すように続ける。

「この町におるんやったら最悪仕事なくても俺が養えるし、仕事も紹介できるわ。やけど、それは千尋の欲しいものやないやろ?」


苦しそうな表情をした千尋は、武史の言葉を噛み締める。

中々返事は無かった。

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