武史と千尋の関係が何となく変わったことは、親しく付き合っている秀樹達には分かったようだ。
今まで頻繁に来ていたさくらも少し訪問を控えるようになった。
お盆が過ぎると朝晩は涼しくなり、千尋は今までにない穏やかな日々を過ごしていた。
『千尋さん、これでいいんですね。もう修正できないですよ』
「うん。美香ちゃん、お願いします」
美香に見えないと分かっていても思わず電話口で頭を下げた。
『私は作風にあったよい翻訳だと思っています。じゃないと編集者としてGOは出さないので。上司にも承認も貰っています。
ただ、今までの村上千尋の翻訳とは全然違うので……』
美香の言わんとしていたことはわかっている。
「私はこの翻訳が今出来る最高のものだと思っている。あとは読者に評価してもらうよ」
評価が貰えなかったら、美香からの仕事は来ないだろう。
お互いにそれが分かっているが、敢えて口には出さなかった。
美香から貰った仕事を完成させたのは、8月の終わりだった。
本当はお盆前に完成していたが、納得出来ず、締切まで時間があったため美香には出していなかったのだ。
あの夜、武史との一晩を過ごし、ほぼ全部といいくらい書き直した。
骨組みは出来ていたとはいえ、締切を考えると無謀なことだと分かっていたが、どうしてもやりたかった。
幸い、ルーティンの翻訳は少なかったため、ほとんどの時間を費やし締切までに完成させた。
大好きな作家が初めて書いた恋愛小説。
いつもは社会を風刺するような作品を多く書いている作者の初めて出した恋愛小説は本国でも賛否があると、留学していた頃の友人に聞いた。
いつも鋭い目線で社会を見ている作者なだけあって、愛の表現も重厚なものだった。
いつものように翻訳をするのは問題なかった。
ただ、そうして書いた文書はどうしてもこの作品に合わない。
傍から見れば大したことの無いくらいの違和感。現に中間報告で途中までデータを送った美香から来た返事には、細かい指摘はあれど大きな修正はなかった。
それでも千尋はいつものように仕上げた翻訳で美香に送る気にはなれなかった。
武史に一晩中愛され、一時的に満ち足りた心で自分の文章を見ると、この作品には相応しい言葉の選び方でないと感じた。
そう感じたら最後、居てもたってもいられなかった。
最低限の家事だけして、それ以外は自室に籠り仕事に没頭した。
時折根を詰めていないか心配そうに部屋を覗く武史に、枯渇している愛情を補給して貰いながら仕上げた。
『一週間後お会い出来るのを楽しみにしていますね!』
俊樹の結婚相手に挨拶するのに合わせて上京し、1週間程東京に滞在する予定だった。
もちろん、美香とも会う約束をしていた。
「私も楽しみにしているね。……美香ちゃん、色々ありがとうね」
千尋の声は自分にしか分からないくらいだったが震えていた。
『いえいえ。またうちで書いてくださいね』
美香の軽やかな声に返事はせずにじゃ、またという短い言葉を交わして電話を切る。
電話を切り終わった後、千尋は零れる涙を抑えきれなかった。
武史に心も体も励まされ、仕上げた翻訳の中にどうしても拭いきれない虚無感があった。
自分の中で最高の出来だと思う。それくらい推敲を重ねた。
出したものはプロとしてお金を貰っている以上、恥ずかしくないものだ。
美香は気づいていない。
自分にだけ分かる決定的なもの。
あれだけ武史が愛を囁いてくれるのに、足りない。
書けなくなる度に、心を埋めるように求めて、嫌がる素振りも見せずに全身で愛してくれる。
それなのに、ポッカリと空いた穴の全てを埋めることは出来なかった。
(私は、あんなに愛されていてもタケちゃんの側には行けないんだ)
止めようとすればするほど涙腺が壊れたように溢れ出て、自分ではもうどうしようもなかった。
いつの間にか寝ていたようだ。
気づいたら武史が傍にいた。
「ん?起きたんか?」
「……何してるの?」
武史は千尋の隣で絵を描いていた。少し照れくさそうに笑いながらも武史は絵を見せてくれた。
「千尋の寝顔描いとった。また一人で泣いとるわ、と思って起きるまで傍にいよう思ってな」
そう言って乾いている涙の跡を手でなぞる。
「いつでも胸貸せるけんな。……できればあんまり一人で泣くなや」
俺がおるやろ、という武史の言葉は今の千尋にとっては辛かった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!