帰宅は日付け変わってからと聞いていたが、思いの外早く武史は家に着く。11時過ぎには帰ってきた。
昼間のお礼をいおうと武史の風呂上がりを待って部屋を出る。
ビールを片手に台所から出てくる武史。
「タケちゃん、昼間はありがとう」
武史は笑って答えた。
「構わんよ。もう大丈夫か?」
千尋が頷くと、武史は安心したように笑い千尋を誘う。
「なら、これ飲み終わるまで付き合ってや」
縁側で二人で並んで座る。
風通りの良い家の造りからか、日が暮れると随分涼しくなる。
東京みたいに蒸し暑さがない。そのため、千尋も夜は扇風機だけで平気だった。
この後も仕事をしようと思っていた千尋はコーヒーを飲んでいた。
「寝れんならんか?」
「最近夜の方が仕事捗るの。涼しいし」
夜は武史のことを考えて寝付けないことは言いたくなかった。
武史がそれ以上何も言わないことをいいことに、さくらから真帆のことを聞いたと伝える。
武史にもさくらと同じことを言われた。
「あー、真帆やからな。否定出来んところが怖いわ」
ビールを飲んでいる武史が僅かに眉間に皺を寄せて答える。
「あいつは思い込んだら周り見えんからな」
「でも付き合っていたんでしょ?」
声に棘が混じった。
千尋が自覚するくらいだ、武史にも勿論伝わった。
嬉しそうに武史は笑う。
「真帆のことが気になるんか?」
「……ちがう」
答えるまでに間があった。更に笑顔になった武史は、今はなんもない、と伝える。
「昔付き合っとったけど別れとるし、今は連絡先も知らん。戻ることはないわ」
「そうなんだね」
自分で自分の首を締めている気配を感じた千尋はコーヒーを飲み干すと、立ち上がろうとする。
立とうとするのを邪魔するように、千尋の右手を掴んだ武史は千尋の顔をみつめ、更に言葉を続ける。
「それに俺、今好きな子おるんや。真帆やなくて、その子がいいんや」
顔が熱くなるのが分かった。
目の前の武史にも表情の変化は分かっているのだろう。
嬉しそうに笑うと、言い訳するように呟く。
「千尋、好きや。俺は前のことも忘れられんし、忘れたくないわ。
でも、千尋が望むなら今日のことも忘れるわ。だから……」
そう言って武史の顔がゆっくり近づいてくる。
掴まれているのは右手だけだ。逃げられる。そう思うのに、千尋は目を閉じて武史の唇が重なるのを待った。
ビールの味とコーヒーの味が交わる。普段なら混ぜ合わせるのが嫌なのに、唇を通じて交わった味は嫌いではなかった。
ゆっくり離れた武史の顔は見れなかった。俯いたままの千尋に武史は声をかける。
「ありがとな。明日になったらちゃんと忘れとくわ」
「……やだ」
「え?」
駄々っ子のように首を振る千尋は声を絞り出す。
「忘れて欲しいのに、忘れられたら何か腹が立つの。前の時からタケちゃんのこと考えて寝付けないし」
「うん」
ダムが崩壊したかのように、苦しそうに感情を吐き出す千尋の言葉を武史はただ受け止める。
「タケちゃんに不足している愛情求めているのもわかってるの。お父さんお母さんに貰えなかった愛情の代わりなの」
「うん」
「怖い……」
「うん」
「柳田さんのこともまだ引っかかってる」
「うん」
「翻訳の文章も上手くいかないし」
「うん」
「色々心ぐちゃぐちゃでしんどいの」
「うん」
千尋の言葉が途切れたタイミングで、武史は言う。
「全部わかった上で、それでも俺は千尋がいいんや。
好きや、千尋。やから……」
言葉を切り、長く息を吐いた武史は何か覚悟したようだ。
「今から俺の部屋に来てや」
その言葉に弾かれたように千尋は顔を上げた。
「千尋、俺を選んでや。足りんもん全部埋めるけん。
だから、俺を……」
そう言って武史は千尋を抱きしめる。
ちょうど武史の心臓の当たりに顔が来る。
耳が直接胸に当たっているわけでないのに千尋の耳にも届くくらい、武史の鼓動は速かった。
武史は千尋の耳元に唇を寄せると、そっと囁いた。
「小さい頃も好きやった。でも、今の方がもっと好きや。
千尋、大事にするけん、俺を受け入れてや」
熱がこもった声に引っ張られるように、千尋は微かに頷いた。
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