自室に戻った武史は、ベッドにゴロリと横になる。珍しく荒れていた。
飲んでも記憶は飛ばないタイプだ。
忘れると言ったが、忘れられるわけなかった。
先程まで重なっていた感触。柔らかくて、少し体温が低い千尋の唇。
飲みすぎたせいにはしたくない。それでも、好きだという気持ちが爆発して、気付いたらキスをしていた。
拒まなかったことが嬉しかったのに、一瞬で地獄に落とされたような感覚。
「本当に、勝手やわ」
チャンスが僅かでもあるなら、柳田のこともその他のぐちゃぐちゃ悩んでいることも全てを受け入れる覚悟はあった。
まだ、キライと言われた方がマシだった。
忘れて欲しいというのはキツい。
それでも、千尋の言葉尻を捉えて自分に良いように解釈しようとしているくらいには惚れていた。
今はダメと言うだけでいつかは受け入れてくれるのではないか。
武史のことをキライと言っていた訳でもない。
何より一度は受け入れてくれた。
千尋の性格上、本当に武史のことを考える余地がないならもっと突き放した態度を取るはずだ。
そんな僅かな隙を見つけて、少しでも可能性を探ろうとしている自分に笑いが込み上げてくる。
「情けないわな」
人肌が無性に恋しかった。連絡すれば、何人かは相手をしてくれる女はいた。
後腐れもなく、適当に一夜を過ごす。そっちの方がよっぽど気が楽だ。
それでも、今欲しい温もりは一夜限りの女ではなかった。
深く深くため息をつき、目を瞑る。
眠れるか不安だったが酒の力もあり、思ったより早く夢の中へと誘われた。
武史が2階に上がったあと、千尋は体を引きずるようにしてシャワーを浴び、自室に戻った。
武史を拒んでしまった。
受け入れるつもりだったのに、気付いたら体が動いていた。
傷ついた顔の武史を前に自分の行動が信じられなかった。
キスは気持ちよかった。
このまま、武史に身を預けたらどんなに楽か。
武史は柳田のことを忘れられないことも、仕事で悩んでいることも全て受け止めてくれる。
卑怯なことは分かっている。色々なことから逃げるために武史を利用している。
武史がそれでもいいと言ってくれるなら、拒む理由は何も無かった。
なのに……
千尋は、何かを忘れるようにパソコンの前に向かった。
美香から頼まれた仕事の本を取る。
最近行き詰まっていたことが嘘のように、文章が次々と出てくる。
こんなことは年に何回もあることではない。
恐ろしい程の集中力で、千尋は作業に没頭した。
明け方まで一心不乱にパソコンと向かい合っていた。
行き詰まっていたのが嘘のように、驚くほど仕事が進んでいた。
ため息をつき、伸びをする。背中と肩がバキバキに凝っている。
流石に一睡もしていないとルーティーンの仕事に響く。
徹夜は難しい年齢になっていた。
重い体をベッドに横たえ、目を瞑る。
そうすると、頭をよぎる武史のこと。
弟と同い年の武史だったが、彼の前では心の内を見せれた。
身を委ねたら幸せにしてくれる。
分かっているのに……
「怖い……」
言葉に出して、初めて気づいた。
いや、本当は前から気づいていたのに、無意識に見ないようにしていた気持ち。
守られるのが怖い。
人と深く付き合うのが怖い。
大切にしたい人を失うのが怖い。
人と向き合い、心をさらけ出すのが怖い。
父母のように、いつか突然失うことになるなら、最初から終わりが見える関係がいい。
それなら、最初から期待しないで済む。
だから、ゴールがない柳田との関係が心地よかった。
彼は千尋に期待しない。
束縛も嫌い、結婚も二度としないと言っていた。
気まぐれにフラリと家に来て、欲望を発散させるように抱いて、またどこかへ行く。
かと思えば、出先で電話をかけ千尋を呼び出し、ご褒美だというように一人では行けない店や高級ホテルに連れていき一夜の夢を見させる。
そういう時は大抵、柳田の仕事が上手くいったときか、千尋の翻訳が柳田の琴線に触れた時だった。
いっそ清々しかった。
彼が求めるのは、自分の翻訳能力だけだと思うと、必要以上に期待しないで済む。
だからこそ、ダラダラと2年も関係を続けてしまった。
ダメな男だ。それでも、1度でいいから全力で自分を見て欲しい。
そんな千尋の気持ちを知っていたのか、柳田はずっと態度を変えることはなかった。
今、千尋がしているのは不足している愛情を他のもので埋めようとする代替行為だ。
そんなことをしても埋められないと分かっていたのに、好きといってくれる武史の気持ちが嬉しかった。
そして、傷つけた。
閉じた目から涙が零れる。このまま寝たら、辛い夢を見る。
分かっていたが、千尋は睡魔に抗えなかった。
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