傷ついた心を癒すのは大きな愛

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公開日時: 2021年5月8日(土) 18:51
文字数:2,032

「っとに、何も言わんのや。言えばええのに」

玄関横の部屋にクーラーを取り付けて1週間。

会合の後、久しぶりに秀樹と飲みに来た。

やっと千尋の夏バテもマシになり、一人にしても食事を食べるようになったからだ。

それまではほとんど食べなかった千尋だが、今は最低限の食事を摂るようになっていた。


珍しく語気が荒い武史に秀樹は笑う。

さくらが気づく前に一番に気づいてあげたかった。

後悔と、毎日近くで見ていたのにさくらの方が先に気づいたことに対するモヤモヤとした気持ちを払拭するようにビールを呷る。

「そりゃあお前が夏バテせんから気付かんわ」

笑い飛ばす秀樹をじろりと睨みつけると、武史はギザミの塩焼きをかじる。

「まぁ、千尋ちゃんが復活してよかったな。お前もわざわざ千尋ちゃんにプレゼン資料渡すために、一旦家に帰っとったもんな。半分は千尋ちゃんの様子を見るための口実やろ?」

「……千尋には言うなよ」

何もかもお見通しの親友に憮然とした表情で武史は答えたのだった。

(それでも、あのことは言えんな)

千尋と少し進んだ関係は、まだ秀樹には言えなかった。




「千尋はプレゼン資料とかまとめるの得意なんか?」

打ち合わせから帰って来た武志は、武史の部屋にいる千尋に声をかける。

武史の部屋にいる時はクーラーがあるから比較的元気な様子を見せる。

サッと目を配り、水や食事を摂っているか確認する。

「大丈夫よ、夕飯はまだ暑かったから食べてないけど、ちゃんと飲み物と塩分は採っているから」

そう言って笑う千尋に武史もつられて笑う。

「んで、プレゼン資料?どの程度できればいい?」

そう言って武史を自分の側に呼ぶ。いくつかパソコンに入っていたプレゼン資料を見ると中々のクオリティだった。

「ここまでのクオリティはいらんのやが、早めに欲しいんや」

そう言って経緯を話す。

若い世代が少なくそのなかでも比較的日中動ける武志は、リーダーのような役割をしていた。

役所の担当者と打ち合わせした内容や、ミーティングで決まったことをまとめていたが、時間がなく手書きで配布した資料は不評だった。


「俺も日中動いてるがまとめる時間が無くてな。去年は別に書記がおったんやけど、子ども生まれたばかりで頼めんし」

本当のことだった。彼女は手伝おうと言ってくれたが、流石に生まれてすぐのため断った。

そうすると今度は武史の時間がなくなり、どうしようか迷っていたところだった。


そのことを聞いた千尋は笑いながら、片手間でパワーポイントでまとめるくらいならいいよ、と安請け合いをする。

「その代わりちゃんと報酬ちょうだいね」

千尋は一週間分のおやつとして、少々値が張るプリンとアイスの商品名を書いた紙を武志に渡した。


千尋に言った理由は半分だけだった。

あとの半分は、千尋が心配だから口実をつけて家にいる時間を増やしたかったからだ。

変なところで気を遣う千尋だから、ストレートに心配と言っても気にしないで、というのがオチだ。

武史が祭りの準備で忙しくしていることは千尋も知っている。

だから、資料作成を依頼するついでに様子を見ることにした。

今までこんな回りくどいことをしたことが無かったが、千尋が言えないなら仕方ない。

他の女だったら煩わしく思うことが、惚れた弱みなのか、この行為すら面倒くさいと感じない。

むしろもっと同じ空間で多くの時間を共有したいとすら思っていた。

今まで、居間以外では二人きりにはならなかった。

それぞれのテリトリーを守るように、出入口から覗くことはあっても、暗黙の了解でお互いに踏み込むことはなかった。

今、自分の部屋に千尋がいる。それだけで、何とも言えない幸せな気持ちになった。


「千尋」

「ん?なぁに?」

パソコンに向かいながら、声だけで返事をする。

「……」

呼びかけたのに中々次の言葉を発しない武史に、千尋は手を止め振り向く。

そこには、真剣な眼差しで千尋を見つめている武史がいた。


ハッとし、思わず息を飲んだ。

「千尋、俺は……」

(お願い!その先は言わないで……今は)

武史の好意に全く気付いていなかった訳ではない。

それでも、千尋は武史の好意を親戚だから、と片付けたかった。

特別な気持ちをぶつけられたら、選択をしないといけない。

まだ、この場所で自分自身と向き合いたかった千尋にとってまだ武史にその言葉を言われたくなかった。


それでもいつにない熱っぽい目で千尋を見てくる武史から目を逸らせなかった。

眉間にシワを寄せツラそうな顔をしている千尋に向かって口を開いた瞬間。


♫♫♫


武史が続きを言おうとした時にタイミングよく携帯が鳴る。

張り詰めた糸が切れるような音に、お互いにビクッとなる。

携帯を見た武史はため息をつき、「悪い」と断って電話に出る。

どうやら、呼び出しのようだ。

「秀樹からや。行かんとダメやわ」

「……ん、わかった。気をつけてね」

正直助かった。そのことが顔に出ていたのか、武史は一瞬ツラそうに顔をしかめると普段の表情に戻る。

「行ってこうわい。帰り遅なると思うわ。ちゃんと晩メシ食べや」



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