朝方まで仕事をしていた千尋が仮眠を取っている間に武史は出掛けたようだ。
(完璧昼夜逆転になっているなぁ)
武史とキスをした日からだ。
武史が同じ家にいると思うと、どうしてもあの時のことを思い出して寝付けない。
忘れるために仕事をして、武史が出掛けた後に睡眠を取る。
武史のことを意識している。
痛いほど自覚していた。
忘れて欲しいと言ったのは自分なのに、すっかり忘れている武史に無性に腹が立った。
そして、他人に対してここまで感情を揺さぶられることがなかった千尋は戸惑っていた。
武史はあっさりと千尋の内側に入ってくる。
柳田の前ですら泣いたのは、たった1回だ。最初に関係を持った時だけだ。それからは、柳田の前でも心をさらけ出すことはなかった。
なのに、武史の前ではもう何度も泣いている。
ありのまま受け入れてくれる武史に、感情をさらけ出すのは楽だった。
武史のことを好きなのかどうか。
何度も自問自答しているが、まだ結論は出ない。
だけど。
唯一わかっていることはある。
(私は、タケちゃんに両親の愛を求めている)
子どもの頃、突然失った心の穴。それを武史は満たしてくれる。
祖父も祖母も俊樹も大事にしてくれていた。
それでも、千尋の穴を埋めることができなかった。
当時は強制的に大人にならないと心が耐えきれなかった。だけど、今は子どもの頃の愛情不足にあえいでいる。
それがわかっているから、今まで柳田以外と付き合ってこなかった。
千尋の求めている愛は、親の愛の代わりだと気付いていたからだ。
柳田と付き合っていたのは、柳田も同類だからだ。
柳田は千尋に何も与えなかった。徹底的に翻訳能力だけしか求めなかった。だから、好きでいられた。
好きにならないと、好きになってくれないとわかっていたから安心して身を任せられた。
なのに、長く付き合えば付き合うほど正反対の気持ちが生まれた。
すべて包んでほしい。受け入れてほしい。
この愛情に飢えた人が私を選んでくれるなら、私は何もかも捨てて選べる。
そこまで思い詰めていた頃に、あの事件が起きた。
柳田は薄々潮時だと感じていたのだろう。別れを告げたときはあっさりしていた。そのおかげで千尋も東京を離れることができた。
もし、あのまま東京にいたら今でもズルズルと柳田と関係をもっていた。
東京を離れ自分のことを見返す時間が増えたから、美香から柳田の連絡先を渡されそうになったときも断れた。
それでも、美香からの仕事をしているときにいちいち柳田の影がよぎる。
(こんな文章は、柳田さんに評価されない)
そう思い、書き直そうとする手を必死に止める。そして、心が苦しくなる。
翻訳者として名前が出るのは、千尋自身だ。翻訳がつまらないと評価されるのも千尋だ。装丁家は売り上げには貢献するが、本の中身を評価される時には矢面にたたない。
あくまで本の面白さを決めるのは、元々の作者の技量と、訳者の力だ。
それに、装丁するのは柳田と限らない。にも関わらず、千尋の評価は柳田が基準になっていた。
今まで一人で生きてきた。強がりだったかもしれないが、それでも自分で食べられるだけの仕事を得て、必死に努力をしてきたつもりだった。
なのに、いざ振り返ると足元がぐらぐらとなっていることに気付いてしまった。
(タケちゃんだったら、こんな私でも受け入れてくれそう)
武史はありのままの千尋を受け入れてくれるだろう。
柳田へのぐちゃぐちゃな気持ちも、武史に求めていることも、すべて理解してくれ、それでも受け入れてくれる。
そんな武史の気持ちを受け入れるのが、怖かった。
色々考えながら眠りについたからか、さくらが迎えに来たときも眠っていた。
「さくらちゃん、大樹くん、ごめん!ちょっと待って!」
慌てて支度をする。
「早めに来たから気にしないで。でもちーちゃんが寝坊なんて珍しいね」
「ちょっと寝付けなくて」
そういいながら、バタバタと準備をする。麦茶を飲んだだけで、なにか食べる余裕はなかった。
急ぎで準備をして、さくらと大樹と連れだって家を出る。
(飲み物忘れたけど、どこかで買えばいいか)
あとでこのことを後悔するのだが、今の千尋はさくらたちを待たせたくない気持ちを優先させた。
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