武史と千尋。二人の気持ちをよそに、あっという間に指定の日はやってきた。
「じゃあ検索するね」
何時になく硬い表情で千尋は居間でパソコンを操作する。隣にいた武史は励ますように千尋の左手をそっと握る。
一瞬びっくりした千尋だが、武史の温かい手を振り払うことはなかった。
まずはネットで本を買えるサイトを見て、コメントを見る。武史も一緒に確認するが、評価は可もなく不可もなくといったところだ。
そして、千尋が次に見たのは、本好きがレビューを投稿することで有名なサイトだった。
そちらの方の意見は多少辛辣な意見も混ざっていたが、好意的な意見もあった。
無言で画面を見つめていた千尋は、全てのレビューを確認した後小声で呟く。
「良かった……」
武史が千尋の言葉の意味を聞き返す前に、彼女は一枚の名刺と携帯を取り出し、電話を掛けた。
『はい』
低い低音。不機嫌そうに聞こえるのは寝起きだからだろう。
千尋はこの声が好きだった。
「村上です」
しばらく無言が続いた。電話の向こうの彼の様子が目に浮かぶ。
いつものように皮肉そうに片眉を上げているのだろう。
『3か月も待たせたんだ。良い返事だろうな?』
「ええ」
そこで千尋は一旦言葉を切って武史を見た。
武史にも名刺が見えているから誰に電話を掛けているか分かっている。
武史は少し切なそうに、それでも千尋の決断を励ますように微笑んだ。
千尋も武史に答えるように微笑み、言葉を吐き出した。
「お断り致します」
予想外だったのだろう。柳田には珍しく動揺しているようだ。電話の向こうで息を飲む音がする。
『……条件は悪くない仕事だ。聞かずに断るのか?』
「ええ。恐らく私が自分で探す以上の内容の仕事だとは思います。
でも、欲しいものでは無いんです。柳田さんの元にいたら、私は新しい世界を見ることが出来ない。
それに……」
そこで千尋は、言葉を切る。伝えようと思っていたのに、いざその時になると色々な思いが込み上げてきて言葉が詰まった。
武史が励ますように、千尋の左手をギュッと握った。
「私は、今まで柳田さんに評価されたくて訳していました。……心の穴をありのまま認めてくれるあなたに評価されるのが嬉しかった。
でも、それじゃもう足りない。柳田さんの好きな私の文章だけでは、私自身が満足しないんです」
泣かないつもりだった。それでも、一筋だけ涙が零れた。
「……っ。好きでした、あなたのこと。あなたの生み出すデザインも好きでした。
でも、今は好きな人がいるんです。なので、個人的に会うつもりもありませんし、連絡も取りません。この電話で最後です」
柳田は少し間を置いて千尋に問いかける。
『あの時、千尋を選んでいたら結果は変わったか?』
千尋は首を振った後、柳田に見えていないことに気づき、言葉で否定した。
「いえ。私は翻訳の仕事が天職だと思っています。だからこそ、どんな仕事でもプロとしてその時の最高のものを出しています。
柳田さんは、自分の好みの訳本をする私が好きなだけで、私のことは好きじゃないんです。
でも、私に取っては今まで出した翻訳も今回出した本も全て私にとっては最高のものなの。
だからあの時選ばれていても、遅かれ早かれ同じ結論を出していました」
柳田は何も言わなかった。
千尋は最後に柳田に感謝を伝える。
「柳田さん、私に新しい世界を見せてくれてありがとうございます。
……それでは」
『千尋』
電話を切ろうとする千尋を柳田が呼び止めた。
『気が向いたらまた村上千尋の翻訳本をデザインしよう。俺を動かすだけの文章を期待しておく。
あと、さっきの推測だが、一つだけ否定しておく。
……信じられないかもしれないが、お前に向けていた気持ちに嘘はなかった。じゃないと、いくら好みの文章書いても深い関係にはならなかった。
……離婚前に手を出したのは、逃がしたくなかったからだ。今更だから言い訳に過ぎないがな。
俺に啖呵切ったんだ。書き続けろよ』
それだけ言うと柳田の方から電話は切れた。
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