傷ついた心を癒すのは大きな愛

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公開日時: 2021年5月6日(木) 08:46
文字数:1,674

「そういえば東京帰るんか?」

帰りの車で武史が千尋に確認する。

「あれ?元々あの家に住まわせてもらうの、1年の約束でしょ?まだ、東京に戻るかどうかは決めていないけどね」

「......聞いとらん」

「もしかしたら、敏子おばちゃんにしか言っていなかったかも。ごめんね、タケちゃん」

(あと8ヶ月か)

「千尋がおらんなったら寂しなるな、トラが」

横で千尋が口を尖らせる。

「トラだけだよ、寂しがってくれるのは」

「怒んなや。……俺かて寂しいわ。千尋の飯食えんなるしな」

「ありがとう。タケちゃんよく食べてくれるから作りがいあるよ」

千尋は嬉しそうに笑う。


ふと、真顔になると千尋はポツリと呟く。

「今は何とかなるけど、どうしてもツテとか情報は東京の方が強いしね。まだどうするか考え中だけど、正直色々迷っている」

初めて聞いた千尋の仕事の悩み。ずっと地元でしている武史には想像することしか出来ない。

「東京はやっぱりすごいんか?」

「うん。ツテも人脈もない私が独立したとき、努力次第で一人で食べていけるくらいのお仕事は貰えていたから。その代わり何かに追われている感じだったけど」

最初は締切がタイトな無茶な仕事も引き受けていたしね、と付け加える。

「この町でゆっくりした空気の中でする仕事も素敵だけどね」


東京とこの町で流れる時間の速さは全然違う。

東京では全てが慌ただしく、駆け足でないと取り残される感覚だった。

自分を振り返ることなく、ただがむしゃらに仕事をする。

そうして得た人脈や、経験。それは、千尋の今の仕事を支えている全てだった。

この町に来て、働き方を変えてゆったりした気分で仕事をすることは、とても心地よかった。

だけど、以前のような自分を追い詰み、がむしゃらに働く中で生まれる言葉達がいることも知っていた。

作者の思いを読者に届けるための大事な言葉。

自ら新しい何かを生み出すことが出来ない千尋にとっては、言葉はとても重いものだった。

だからこそ、ピッタリの表現を見つけた時は身震いする程嬉しかった。


だけど、この町に来てゆったりとした時間を過ごす中で気づいたこともある。

今まで蔑ろにしていた自分自身だ。

ここで過ごす内に好きなものが増えた。


縁側でうたた寝しているトラの横で洋書を読むのが好きだ。

朝、夜明け前に近所の川辺に行って日の出を見ながらおにぎりを食べるのが好きだ。

釣りをしている武史の横で、海を見ながら取り留めのない会話をして過ごすのが好きだ。

美味しいと言ってくれる武史のために料理を作るのが好きだ。

買い物の時に近所の人と他愛もない話をするのが好きだ。


自分の中に日常でこんなに沢山心を満たされることがあることを知らなかった。

知らず知らずの内に心を封印して生きていたのだろう。

ここにいれば、取り繕うことなくありのままの自分でいられる。

その中で翻訳した仕事は、自分でも変化がわかるくらい優しい文章になっていた。


「両方は選べんのか?」

武史の物言いはストレートだ。考え方もとてもシンプルで、ありのままを受け止める。

ぐちゃぐちゃ余計なことを考えてしまう千尋には出来ないことだから、単純だなぁ、と思うと同時に羨ましくもある。

「分かんない。両方選べるのか、それとも片方しかダメなのか……。また違う道も出てくるかもしれないし」

そのタイミングで家に着いた。車を家の駐車場に入れると武史は口を開いた。

「なら、まずは何も考えんと目の前のことを一つ一つ片付けていくことやな。考えてもしゃーないしな」

武史の口癖の「しゃーないしな」を聞くと、ごちゃごちゃ考えていた自分の悩みが大したことじゃないように思える。

こういうところが、武史と一緒にいて居心地がいい理由なのだろう。

必要以上に考え込まなくて済むし、悩みのループにハマっていると救い出してくれる。



「タケちゃん」

「ん?」

「ありがとうね」

彼といてどれだけ救われているか。

柳田のこと、仕事のこと、千尋自身のこと……。

いつかキチンとお礼をしないといけないと思いつつ、今は言葉だけ伝える。

「何もしとらんけど、どういたしまして」

ニカッと笑う武史につられて千尋も笑顔を見せた。


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