「おかえり。早かったな」
予定の日に帰ってきた千尋は武史の顔を見るとホッとしたような表情になる。
「ただいま。一本早い電車に乗れたから」
武史のおかえりの言葉に千尋は嬉しくなる。
武史が待っている家。
『行ってらっしゃい』『おかえり』のセリフを武史から聞くと、ここに居てもいい、帰ってきてもいいのだと言われているようだ。
この家は今では千尋の心の拠り所になっていた。
「あっ……。そうなんだ。そういうことか」
思わず声が漏れていたようだ。武史がビックリしたように振り返る。
千尋は緩く首を振った。
やっと自分の気持ちに気づいた千尋は、知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。
「年内中に仕事で出かける予定はあるんか?」
千尋が買ってきた有名な豚まんを夕食にしながら武史は尋ねた。
「ううん、もう終わり。仕事も目処がついたし」
「そうなんか」
うん、と答えた千尋は武史にお願いをする。
「今度のタケちゃんの休み、一緒に見て欲しいものあるの」
「ええけど、何なん?」
一呼吸置いて、千尋は伝えた。
「夏に書いた翻訳本のレビュー」
武史はそんなことか、と言いええよと二つ返事で了承した。
夕食後、早々に自分の部屋に戻った武史を見送り、千尋は居間に出しているコタツに入り、パソコンを見つめていた。
自分の望みがやっと分かった。
この二ヶ月、同居しているにも関わらず一切手出しをせずに待っていてくれた武史に感謝をする。
もし、何かされていたらきっと判断が鈍っただろう。
「あとは、どうするかな……。両方か、片方か、それとも他の道か」
初めて美香が来た夜に展望台で夜景を見ながら武史と話したこと。
あの時はまだ決断出来なかった。
秋に社長と柳田と会った後、春が来る前に東京に戻ろうと決めた。
柳田のことは別として、仕事をすることに関しては東京は魅力的な街だった。
新しいことを始めるには東京の街のネオンや慌ただしさが心地よかった。
仕事で何をしていきたいのか考えた時、訳者として第一線で働きたいと思った。そして、可能なら出版翻訳ももっとチャレンジしたいとも。
好きなことを仕事にしている。
だからこそ、この言語を極めていきたい。その国の素晴らしい文学を伝えていきたいと思っていた
そのために、仕事の構成を変えようとも。
千尋の今の仕事は、8割が元のいた会社から貰う仕事、1割が柳田から紹介された出版関係の仕事、残りの1割が千尋が自ら探した仕事だった。
いつまでもそのような割合で仕事をしていたら先細りは見えている。
東京で新しい仕事を始めるために、千尋はこの3ヶ月弱新規開拓を始めていた。
幸いにもこちらに来てから始めていたブログで仕事のことを紹介すると同時に、知り合いのツテを辿ったり、自ら売り込みに行ったりしていた。
門前払いもされたが、お試しで使ってくれるところもあり、何とか目処がたったところだ。
それがキチンと生活できるだけの仕事になるか。根拠の無い自信だが、何となく上手く行く気がしていた。
仕事の基盤は作った。仕掛けも打った。あと考えないといけないのは、柳田と武史のことだった。
そのためにも。
「どんなレビューされているのかな……」
柳田以外の評価を見て、千尋自身はどう思うのか。
不安もある。辛辣な言葉が書かれているかもしれない。
それでも自分で決めた新しい未来に一歩踏み出したことにワクワクもしていた。
自分の部屋に戻った武史はため息をつく。
次の休みに千尋は答えをくれるだろう。
奇しくもその日は武史の誕生日だった。
「誕生日にフラれるのは中々堪えるな……」
千尋の様子で薄々気付いていた。近い内に千尋はこの家を出る。
それは武史との別れも意味していた。
東京から帰ってきた千尋には触れていなかった。いや、触れることが出来なかった。
柳田に心を動いている千尋に手を出して、嫌がられたら立ち直れない。
前向きに色々なことをしている千尋を応援したい。だが、それはこの生活が終わることも意味していた。
離れるならせめて元の親戚関係に戻りたい。完全に戻れないことは分かっている。
それでも、千尋が何かに悩んだり迷ったりした時の最後の駆け込み寺として存在したい。
そんな小さな繋がりでも保って置きたい自分に自嘲する。
「情けないわな」
女々しいことは分かっている。
それでも千尋のことを簡単に忘れることが出来ないことも知っていた。
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