「うぶっ、おえぇぇぇぇ……!!」
目の前の便器に、僕が吐き出したものがぶつかり、一部が顔に跳ね返ってきた。だけど今の僕は、そんなことも気にならないほどに気分が悪い。
『薬師光莉』を支配することに成功した直後、彼女は歯の治療のために早退した。学校のみんなには『転んで歯を折った』と説明するように言ったが、『鋭角』は怪しむかもしれない。
しかしそれならそれでいい。これからのことを考えれば、そちらの方が好都合だ。
そして一方の僕はというと授業が始まると同時に強烈な吐き気に襲われ、こうして今、学校のトイレで盛大に嘔吐している。
原因はわかっている。いくらごまかそうとも、僕はあの『光莉姉さん』を二発も殴って、泣かせてしまった。『薬師光莉』と『光莉姉さん』を区別した上での行動だったが、僕も心の中ではそんな言い訳が通用しないことくらいわかっている。だけど、あのままでは『光莉姉さん』はずっと救われないままだ。
『薬師光莉』は、『水島晶』による暴力の被害者であるという事実が無いと、僕がこれからしようとすることは上手くいかない。
だけど今、僕は大切な人を傷つけたという罪悪感だけで、これほどまでのダメージを受けている。やはり暴力で他人を支配したところで、人間は強くならない。むしろそのことが心の重荷となっているのであれば、僕はやっぱり弱い部類の人間なんだろう。
それなら『鋭角』はどうなんだろう。あいつは、あの男は自分の行動は全て『正義』だと信じている。『正義』のために他人を傷つけ、『正義』のために暴力を振るっている。それなら多分、『鋭角』に罪悪感なんてないんだろう。だからあいつは他人を傷つけても全く苦しくない。いや、他人を傷つけているという自覚が無い。
ふざけるな。僕や姉さんがこんなに苦しんでいるというのに、加害者であるお前は薄っぺらな正義に浸っているだけなんて許せない。
僕は『鋭角』の強さも正義も否定する。そうすれば、光莉姉さんも救われる。一方的な暴力に晒されていた姉さんを『鋭角』の手から救い出すんだ。
決意は既に固めた。だけどこれから事が進めば、僕には更に困難が待ち受けている。それに屈しないための決意だ。
そして粘液にまみれた口を豪快に拭い、僕はトイレから出た。
そして放課後。僕は予定通りの行動を起こそうとしていたが、その前に意外な人から呼び出された。
「どうしたんですか、黛さん?」
先日、僕たちが話したのと同じ場所――屋上に続く階段の前で、黛さんは少し不機嫌そうに立っている。
「……アンタ、薬師さんに何かしたの?」
彼女が口にしたのは、意外にも光莉姉さんのことだった。どうしてこの人が、姉さんのことを心配するのだろうか。
いや、それはどうでもいい。とにかく、今ここで僕と光莉姉さんの間に何かあったことを悟られるのはまずい。それはまだ早いんだ。
「答える必要がありますか?」
「その口ぶりだと、何かあったように聞こえるんだけど」
「だとしても、あなたに教える義務はありませんよ」
「生意気なこと言うわね。一応、私は先輩なんだけど」
……妙に食い下がってくるな。どうするべきだろう。
「まあ別にいいけどね、アンタが何をしようと興味はないし」
「だったら、もうこの話は終わりでいいですか?」
「アンタに興味は無いけど、私の言葉でアンタが薬師さんに何かをしたとなったら、話は別。そうなると、私はアンタを止める義務があるわ」
そう言って、黛さんはどこか気まずそうに目を逸らす。
なるほど。もしかしてこの人、周りに興味はないと言いつつも、根はやさしい人なのかもしれないな。
「僕を止めると言われても、止まるつもりはありませんよ」
「言ったでしょ、アンタそのものには興味はないの。だから薬師さんに何をしたかだけ言って」
「……『薬師光莉』を、支配しました」
「……!」
このまま引き下がってくれる人じゃないと判断し、僕は自分のしたことを打ち明けた。
「『薬師光莉』は僕に暴力を振るっていました。だから僕は反撃して、あの人が二度と僕に逆らわないようにしました」
「……そう。つまりは薬師さんは自分のしたことのツケを払ったってわけね」
「はい。だから黛さん、あなたが気に病む必要はありません。全ては、僕が自分で選んだことです」
「……」
僕は自分のしたことから逃げるつもりはない。だけど、黛さんはそれでは納得しなかった。
「だとしても、私の言葉がアンタにそんな行動をさせてしまったという可能性は捨てきれない。というか、『あなたのせいじゃない』って言われただけで安心するほど、私は人間が腐ってないつもり」
「だとしたらどうします? 僕を、先生に突きだしますか?」
「話は最後まで聞いて。薬師さんは痛い目を見たけど、それは自業自得。だけどアンタには他の道があったかもしれない。それを私が潰してしまったとしたら、私としても『興味が無い』で済ませたくはない」
「……だったら、どうするつもりなんですか?」
「一度だけ、アンタに協力してやるわ。アンタの目的は角谷の排除でしょ? 別に角谷が間違ってるとは思わないけど、薬師さんがいなくなって角谷が暴走したら、私も迷惑だから」
「一度だけ、ですか」
「私は腐った人間にはなりたくないけど、別に聖人でもない。赤の他人に無条件で協力するほど、人間できちゃいないわよ」
だとしても、これは大きなアドバンテージだ。これからやろうとすることに協力者がいれば、成功率はかなり高くなる。
「……わかりました。でしたら、してほしいことがあります」
そして僕は、黛さんに計画を打ち明けた。
「……アンタ、それで本当に大丈夫なの?」
「心配してくれるんですか?」
「別に、ただ純粋に疑問に思っただけ」
そう言った黛さんだったが、目を瞑って顔を逸らしたその姿は、ごまかしているようにしか見えなかった。
その後。僕は三年生のクラスに行き、『鋭角』の姿を確認する。
「先生! 薬師はどうして早退したんですか!?」
「おいおい角谷、言っただろう? 怪我をして病院に治療を受けに行ったんだよ」
「ですが、薬師が怪我をしたとしたら、誰かにいじめられたとしか考えられません! 僕たちがそいつを見つけ出します!」
「うんうん、角谷は頼もしいな。頑張ってくれよ」
『鋭角』はまるで光莉姉さんを心配するかのようなことを言っているが、その言葉はやっぱり姉さんを見下しているとしか思えなかった。そして『鋭角』から質問を受けている鈴木みどりも、まるで煽るかのような言動をしていた。
……何が「いじめられたとしか考えられない」だ。そんな風に勝手に姉さんを下のランクに位置づけるな、不愉快だ。
まあいいや、とにかく行動に移そう。
「失礼します」
僕は一礼してから教室に入り、一目散に教室の隅にある掃除用具入れからバケツを取り出す。そして教室の後ろにあった水槽から水を汲んだ。
「おい水島! 何をしているんだ!?」
思った通り、『鋭角』は僕に注意をしに近づいてくる。こいつの行動は読みやすい。
だから僕は、予定通りに動けた。
「こうするんだよ!」
予定通りに、バケツの水を、『鋭角』に向かってぶちまけてやった。
「ぐうっ!?」
水をかけられた『鋭角』は、一瞬あっけにとられていた。
僕はそれを見て、すかさず畳み掛ける。
「角谷先輩。薬師さんを心配してましたよね? それなら教えてあげますよ、僕が『薬師光莉』に怪我を負わせたんだ」
「……!?」
「ほら、どうしました? 僕の根性を叩き直さないんですか? 出来るもんならやってみろよ」
『鋭角』は少し戸惑っている。確かにいきなりこんなことを言われても、すぐには状況を理解できないだろう。だから僕は、もう一つ手を打っていた。
「角谷くん」
僕より先に教室に入っていて、この一部始終を見ていた黛さんが、絶妙なタイミングで『鋭角』に声をかける。
「今思い出したんだけど、その水島って子、朝に薬師さんと一緒にいるのを見たわ。もしかして、本当にこの子が薬師さんを……」
断定はせず、しかし疑惑を深めるように証言する黛さん。どうだ『鋭角』、これで出来たんじゃないのか?
お前が僕を、『正義』のために叩きのめす大義名分が。
「そうか……水島……お前が……」
しばらく濡れた顔を手でぬぐっていた『鋭角』だったが、僕は見た。
その手の奥で、醜悪に笑うその顔を。
「水島ぁ!」
その直後、『怒りの表情』で『鋭角』は僕に掴みかかった。
「お前はそこまでクズだったのか! ようしわかった! 俺がお前を叩き直してやる! 俺がお前を救ってやる! それこそが薬師のためであり、お前のためだ! お前に拒否権は無い! いいな!」
連続で怒鳴り声をあげているが、僕は知っている。おそらくお前も自覚していないだろうが、あの醜悪な笑顔こそが、お前の本性だ。
常に他人に説教する理由を探し、間違っている人間がいたら楽しそうに笑顔を浮かべるその姿こそが、お前の本性だ。
とにかくこれで『鋭角』のターゲットは光莉姉さんから僕に移った。待っててね、姉さん。
あなたが戻るまでに、この男は絶対に排除しておくから。
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