「はあ……はあ……」
光莉姉さんに倉庫に連れてこられてから十分ほど。ようやく姉さんは僕を蹴るのを止めた。
「……わかってるよね、晶? これは仕方のないことなの。私より弱いアンタがいけないの……。だから私は悪くない……そう、悪くないの」
「わ、わかってるよ、姉さん……」
僕は光莉姉さんの行動を咎める気はなかった。だけどなぜかその返答が、姉さんを余計に苛立たせてしまった。
「はぐっ!」
「…………」
姉さんは最後にもう一度僕を蹴ると、何も言わずに倉庫の扉を開けて、自分の教室に戻っていった。
「いたた……」
一人残された僕は、あちこち痛む身体をさすりながら考える。どうしてこんなことになってしまったのかを。
中学校に入学したばかりの頃は、まだ姉さんも変わってはいなかった。僕に対しても、周りの人に対しても、か細い声だけど優しく接していた。
だけど五月に入りかけた頃から、姉さんの様子が次第におかしくなっていった。何かに異常に怯えるようになったし、機嫌が悪くなることが多くなった。特に僕に対しては今までの『晶くん』という呼び方から『晶』と呼び捨てするようになり、僕の姿を見るだけで怒った顔をするようになった。
そして姉さんが僕を殴ったり蹴ったりするようになったのは、一ヶ月前の僕の言葉がきっかけだと思う。
その日は、僕は部活の見学でいつもより帰りが遅くなっていた。いつもは姉さんとは帰りの時間が重ならないので一人で帰っていたが、もしかしたらまだ姉さんが残っていると思って、探していたのだ。
そして僕は三年の校舎の昇降口近くで光莉姉さんを見つけた。だけど姉さんは誰かと話をしていたので、邪魔をしてはいけないかなと思って、遠くで見ていた。
光莉姉さんと話していたのは、三年生にしても身長が高く、四角いメガネをかけて髪を短く刈り揃えた男子生徒だった。その外見はいかにも漫画に出てくるような『マジメな委員長タイプ』に見える。
だけど僕にはその人が、すごい威圧的な人に見えた。身体が大きいからというわけじゃなく、光莉姉さんに詰め寄るその態度や、人を見下ろすその視線がそう感じさせるのだ。
何を話していたのかまではよく聞こえなかったけど、見ていると二人は話しているというより、男子生徒が姉さんに一方的に言葉を投げかけているように見えた。姉さんは男子生徒の言葉を黙って聞き、顔をうつむかせてじっと耐えるように口を閉じている。
だけどしばらくすると、男子生徒の怒鳴り声が聞こえた。
「だからお前は無能なんだ!」
その言葉だけははっきりと僕の耳に聞こえた。それほどまでに大きな声だったのもあるが、その男子生徒の顔があまりにも姉さんを威圧していたので、印象に残ってしまった。
男子生徒は怒鳴り声を上げた後に姉さんから離れ、ツカツカとこちらに歩いてきた。
「ひっ」
僕は男子生徒が怒ったままの表情で近づいてきたので思わず悲鳴を上げてしまったが、男子生徒は僕に気づかないかのように靴を履き替え、さっさと出て行った。
「晶……?」
僕が悲鳴を上げたことで姉さんも僕に気づいたようで、顔を上げる。話は終わったみたいだったので、僕は姉さんに近寄った。
「姉さん大丈夫? えっと、さっきの人は……?」
「晶……アンタ、ずっと見ていたの……?」
「え?」
光莉姉さんの表情が怯えていた状態から徐々に変わっていく。そして僕に対して怒っているような顔になった。
「ね、姉さん。いったい何が……」
「アンタ! 私がどんな目に遭ってたか見ていたの!?」
「ひいっ!」
初めて聞く、姉さんの怒鳴り声。それはさっきの男子生徒のものよりもずっと、僕の心を傷つけた。
姉さんは自分が大きな声を出したことに驚いた様子だったけど、少しした後にいつものか細い声で僕に詰め寄った。
「晶……アンタ、私がこんな目にあってたのを見てたのね……?」
「う、うん……」
「じゃあ、なんで私に声をかけなかったの……?」
「え?」
「私が困ってたの、見てたんでしょ? 何で私たちに声をかけなかったのよ……?」
姉さんはその長い前髪の下から尚も僕を睨みつけてくる。初めて経験することばかりで、僕はどう答えていいかわからず、しばらく黙っていた。
「答えてよ晶……! 何でアンタ、私を……!」
姉さんがか細い声で喋っていたので最後の方で何を言っていたのかよく聞こえなかったけど、僕は仕方なく正直に答えることにした。
「だって……その、あの人が怖かったから……」
中学校に入学したばかりだし、身体の大きい上級生が怒鳴り声を上げていたら怖いに決まってる。僕はそう考えていた。
だけど姉さんは僕の言葉を受けて……
「……晶アアアアアアアアッ!」
「あぐっ!」
僕を激しく殴りつけた。
「……!? あ、私……」
初めは姉さんも、自分の行動に驚いているようだった。だけど僕の驚きは多分それ以上だったはずだ。あの姉さんが、光莉姉さんが、他人を殴るところなんか見たことがなかった。ましてや年下である僕を殴るなんて考えられなかった。
でもそれでも現実に、僕の頬には姉さんに殴られた証である痛みがジンジンと響いている。この分だと頬が赤くなっているかもしれない。それほど激しく殴られたんだ。
そして戸惑っていた姉さんは次第に落ち着きを取り戻し、再び僕に向き直った。
「晶……アンタが、アンタが弱いからいけないの……!」
そう言い残した光莉姉さんは立ち上がると、下駄箱から取り出した外靴を激しく床に叩きつけて、靴を履き替えて出て行ってしまった。
「あ、ああ……?」
僕はあまりの事態にうめき声を上げることしか出来なかった。だけどしばらくして……両目から自然と涙が溢れてきた。
「う、あああああ……」
気づけば僕は声を上げて泣いていた。姉さんを怒らせてしまった。姉さんに嫌われてしまった。その現実が、僕をどうしようもなく追いつめる。
僕は何をしてしまったのだろう。どうして姉さんを怒らせてしまったのかわからない。それすらわからないと、僕はどうやって姉さんに許してもらえればいいのかわからない。
光莉姉さんに何が起こったんだ。どうしてこんなことになってしまったんだ。僕はただ、姉さんと楽しく過ごしたかっただけなのに。それがいけないことなんだろうか。
考えても、考えても、僕は泣きわめくことしかできなかった。
そしてその翌日から、光莉姉さんは授業が始まる前に僕を体育倉庫に呼び出し、殴ったり蹴ったりするようになった。
最初に呼び出された時は、僕を許してくれるのかと思っていた。だけど倉庫に入った直後に激しく殴られた時、そんなことはないのだと悟った。姉さんはまだ僕に起こっているのだと思い知らされた。
姉さんがこうなった原因はいまだにわからない。だけど僕に暴力を振るうとき、姉さんは決まって『アンタが弱いからいけないんだ』と言っていた。
その言葉にヒントがあるのかどうかわからない。だけど姉さんの言葉通り弱い僕にはどうしようもなかった。なすがままにされるしかなかった。
そして今、僕は今日もこうして姉さんに暴力を振るわれてから授業に出ている。
クラスの人たちや担任の先生たち、それに家族にもこのことは言っていなかった。姉さんを怒らせたのは他でもない僕だし、このことで姉さんが周りから怒られるのも、また姉さんを怒らせてしまうのも怖かったからだ。
だけど体中に残る痛みをごまかすのも限界があったし、殴られた箇所のいくつかにはアザがあったので、それも隠さないといけない。このままだといずれ姉さんと僕のことはみんなにバレてしまう。どうすればいいんだろう。
そんなことを考えていた昼休み。給食を食べ終わって教室で一人ぼんやりとしていた僕に、先生が話しかけてきた。
「水島、ちょっといいか?」
「は、はい?」
「実は三年生を担当している鈴木先生から、お前に少し話があると言われてな。何でもお前と一対一で直接話をしたいそうだ。生徒指導室に行ってくれるか?」
「え……?」
鈴木先生? 確か名前くらいは聞いたことあるけど、三年生の担当をしている先生なんてどんな人だったか覚えていないし、話したこともない。なんでそんな人が僕に話があるんだろう。
……もしかして、光莉姉さんのことだろうか。不安を覚えながらも、生徒指導室に行くことにした。
生徒指導室は三年生の教室がある校舎の三階にあった。普通の教室よりちょっと狭いくらいで、他にすごい特徴があるわけじゃない。いたって普通の部屋だ。鈴木先生は既に中にいると聞いていたから、僕は扉をノックした。
「はい、どうぞ」
中から返事があったのを確認し、『失礼します』と言って中に入る。部屋の真ん中にある机の前に座っていたのは、爽やかな印象を受ける笑顔を浮かべた男の人だった。僕の担任よりも若いけど、決して子供っぽいわけでもない。歳は三十歳くらいかもしれない。この人が鈴木先生らしい。
「やあ、君が水島くんか。待っていたよ」
「は、はい、えっと……」
「まあ、座りなよ」
鈴木先生に促されて、向かいに座る。初めて話す先生と向かい合ったことで、これまで異常に緊張していた。
「あ、あの」
「まあそんな固くならないでいいよ。あ、先生の名前は『鈴木みどり』。よろしくね」
「はあ……」
意外にも女の人みたいな名前をしてるんだなと思いながら、僕は鈴木先生の次の言葉を待つ。
「それでさ、君に少し質問があるんだけど」
「質問?」
「先生のクラス……薬師さんがいるクラスがどうなっているか、興味はないかな?」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!