黛さんとの会話で決意をした翌日。僕はいつも通り、光莉姉さんに体育倉庫に呼び出されていた。
「ちゃんと来たのね晶……偉いじゃない……」
最近は殴られることを恐れて姉さんの顔をじっくりと見ないようにしていたが、久しぶりにその顔をよく見てみると、以前より遥かにやつれているように見える。僕には密かに自慢に思っていると打ち明けてくれたあの綺麗な肌も、今は少し荒れてしまっている。
……やはりそうだ。『鋭角』は光莉姉さんをここまで追い詰めていたんだ。そして僕は光莉姉さんへの恐怖で、彼女のことを今までよく見ていなかった。それも姉さんを怒らせる原因だった。
……これから僕は、人として、男としてやってはいけないことをやらなければならない。だけどまだ僕は躊躇していた。本当に、僕がやろうとしていることは正しいのかと。
「晶、私が何で怒っているかわかるよね……?」
光莉姉さんは僕に言葉を投げかける。おそらくは、昨日の黛さんの一件のことだろう。
「アンタ、黛さんに変なこと言ってないよね……? 私が、私が……」
そこで姉さんは言葉に詰まる。どうしてかと一瞬考えたけど、姉さんも自分がやっていることを言葉にするのが辛いのだろう。
自分が、年下の幼馴染に暴力を振るうような人間だということを。
「何よその目……? アンタ、私を憐れんでるの……?」
そんな目をしていたつもりはなかったけど、僕の心は表情に出やすいらしい。
「……何とか言いなさいよ!」
そして光莉姉さんは僕を殴った。『いつも通りに』、『何の躊躇いも無く』。
……そう、今の姉さんはそういうことをする人間なんだ。だけどそれは本来の『光莉姉さん』じゃない。僕が知っている、優しくて綺麗な『光莉姉さん』じゃない。今、目の前にいるのは『鋭角』によって歪められた、偽物の『薬師光莉』だ。僕が守りたいのは、偽物ではなく、本物の『光莉姉さん』だ。
だから僕は……今の『薬師光莉』を打ち破る必要があった。
僕は目の前にいる『薬師光莉』を見る。僕に更なる暴力を振るおうとして、その腕を振り上げている姿を見る。
……違う、違う。違う!
こんなものは偽物だ。本物だったとしても認めるものか。僕は『光莉姉さん』を取り戻す。『鋭角』を倒して、優しい『光莉姉さん』を取り戻す。
だから……お前はどけよ、『薬師光莉』!!
「……ぐぶっ!?」
鈍く、そして不快感を伴う音と共に、くぐもった悲鳴が聞こえる。それを発したのは僕じゃない。それを発したのは……
「げ、え……?」
僕に腹を殴られ、大きく開いた目から涙を溢れさせた、『薬師光莉』だった。
「……!!」
予想していたことではあるけど、女性のお腹を殴ったという事実が僕の心に容赦ない攻撃を加える。
『最低だ、最低だ。お前は最低だ』
誰の声ともわからないような声が、僕の頭に響いているような気がする。だけどあくまで気がするだけだ。これは僕のちっぽけな良心が、自動的に自分を責めているだけだ。
だけどそんなものはいらない。誰も救えないなら、良心なんて持つ必要なんてない。引っ込んでろ。
「が、あ! げほっ、げほっ……!」
『薬師光莉』は、腹を押さえたままその場にうずくまった。考えてみれば、『光莉姉さん』は別に運動も何もしているわけでもない、普通の女の子だ。だから『薬師光莉』も、別に鍛えているわけじゃない普通の女だ。年下とはいえ、成長期の男子に殴られればひとたまりもないだろう。
「う、げえええ……!」
さらに『薬師光莉』は、口からゲロを吐き出し、倉庫の床にまき散らせた。その光景が、彼女を『光莉姉さん』からさらに遠いものにする。
ああ汚い。汚いな。『光莉姉さん』はこんなことはしない。『光莉姉さん』はもっと綺麗なんだ。だからこいつは偽物だ。
「げほっ、げほっ……あ、晶ぁ……」
ようやく顔を上げた『薬師光莉』は、涙目でこちらを見上げていたが、その顔は自分が吐き出したゲロや鼻水でグチャグチャになっていた。
その顔に『光莉姉さん』の面影を見るが、ここで躊躇してはダメだ。どちらが上か、思い知らせないと。
だから僕は、その顔を拳で思いっきり殴ってやった。
「あぶぅっ!!」
左ほおを殴られた『薬師光莉』は、受け身も取れずに床に倒れる。すると、言葉にならないうめき声を上げながら、口から血を吐き出した。
「ひ、ひぐっ……痛い、痛いぃ……」
涙声で何を言っているのかよくわからなかったが、どうやら痛みを訴えているみたいだ。しばらくすると、口から何か白い塊を吐き出した。良く見てみると、それは奥歯だった。どうやら殴った時に折れたらしい。
まずいな、後に残るような傷があると、『光莉姉さん』の美しさが損なわれてしまう。やりすぎないようにしないと。
「痛い、痛いよぉ……誰か助けて……」
尚も涙を流しながら助けを求める『薬師光莉』を見て、僕は少し腹が立った。
僕を散々殴っておいて、それは虫が良すぎる。もう少し懲らしめる必要があるかな。
「おい」
「ひいっ!」
僕が声をかけると、『薬師光莉』は面白いように怯えだした。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……まさかそんなに怒ってるなんて思わなかったの……お願いだから許して……」
そして頼みもしないのに土下座をして僕に謝ってきた。それを見て、僕は思う。
なんだ。僕はこんな弱い相手に怖がっていたのか?
たった二発殴っただけで、僕はこんなに簡単に相手を傷つけて、支配できた。あの状況を打破するのは、こんなに簡単なことだったんだ。何もウジウジ悩む必要なんてなかったんだ。
その気になれば、僕は簡単に、人を暴力で支配できる。……いや違う。僕に限った話じゃない。『薬師光莉』も、こんなに弱い存在のくせに、僕を暴力で支配していた。暴力で人を支配するなんて、そんなに難しいことじゃないんだ。
そこまで考えてみて、僕は思った。暴力で他人を支配しているという言葉が最も似合う男のことを。
角谷鋭一……『鋭角』は、その強い言葉と暴力で他人を支配している。だけどそれはあいつが特別強いわけじゃない。ただ単に、あいつがそれを躊躇わなかっただけの話だ。そして躊躇わないだけなら、僕にも出来る。
そう、僕のような弱い人間にも出来ることで、『鋭角』はいい気になっているんだ。
つまり、『鋭角』の強さは――偽物だ。
「本当に反省してる?」
僕は目の前で土下座している『薬師光莉』の頭を踏みつける。この分なら僕を殴ることはもうないだろうが、まだこいつは『光莉姉さん』じゃない。だからこういうことも出来る。
「はい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
泣きながら謝ってくる『薬師光莉』。うん、これなら上手くいきそうだ。
「じゃあ、ちょっと僕の頼みを聞いてくれるよね?」
「え……?」
ピクリと体を震わせたが、そんな反応は許さない。
「返事」
「は、はい! 何でも聞きます!」
……とりあえずは、『薬師光莉』を支配することには成功した。これで『光莉姉さん』も、僕を弱い人間だとは思わない筈だ。
これでようやく同じ土俵に立った。待っていろ、角谷鋭一。
僕はお前を倒す。全ては、『光莉姉さん』のために。
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