……昨日、鈴木先生から光莉姉さんに起こったことを聞かされてから、僕はずっと考えていた。
どうして姉さんがこんな目に遭わなければいけないのか。確かに姉さんは少し内気で活発的な性格とは違うかもしれない。だけどそれは光莉姉さんの個性であって、無理矢理変えることではないはずだ。
だけどあの角谷という人は、『鋭角』はその光莉姉さんの性格を否定している。鈴木先生は光莉姉さんをクラスに溶け込ませるため、つまり姉さんのために『鋭角』はあんなことをしていると言っていたけど、僕にはそうは思えない。
そもそも鈴木先生――鈴木みどりも、いい先生とは到底思えない。『鋭角』の好きなようにさせて、光莉姉さんが苦しんでいるのを放っておいているような人だ。そんな人を認められるはずがない。
だけど僕に何が出来る? 証拠のボイスレコーダーは鈴木みどりが持っているし、例え僕の言うことを他の先生に信じてもらえたとしても、他の先生がちゃんと動くかどうかわからない。そもそも、鈴木みどりが表向きに普通に先生をやれているような学校だ。正直言って、当てにならない。
だとしたら、先生たちに頼らずに光莉姉さんを救う? どうやって? そんなことが出来るのか? 相手は身体の大きい三年生だ。小さな僕では到底敵わない。
どう考えても、今の僕が出来ることなんて何一つ無かった。
そして今日も僕は、朝早く学校に来ている。昨日は光莉姉さんの呼び出しに遅れたから、今日も遅れると何をされるかわからない。
そして校門には、いつも通り重たい髪で顔が隠れた光莉姉さんがいた。
「……来たわね、晶? 今日はちゃんと時間通りに来たじゃない」
「う、うん……」
「時間通りに来れるなら、どうして昨日は遅れてきたの? やっぱり晶は私のことを困らせたいの……? 私が嫌いなの……?」
「そ、そんなことないよ!」
無表情で僕に詰め寄る光莉姉さんに対して、反射的に答えてしまう。そういえば姉さんが微笑んだ顔を最近見ていない。
「だったら、私の言うこと聞いてくれるよね……? ほら、早く来なさいよ……」
「……わかった」
そして例によって、僕は光莉姉さんに体育倉庫に連れて行かれて、またも暴力を振るわれることとなった。
「ぐうっ……!」
「……」
無言で僕を蹴り続ける光莉姉さんは、何故かいつもよりも不機嫌に見えた。僕を蹴っている時の姉さんはいつも怒っているような顔をしているが、それがいつもよりも険しいような気がする。
「ごほっ、ごほっ!」
僕たちが激しく動いたことで体育倉庫のホコリが舞い上がり、僕は思わず咳きこんでしまう。そんな僕に対し、姉さんは言った。
「……何よ、その顔は?」
「え……?」
「……晶、アンタも私を見下すの……? アンタも私を、弱い人間だって決めつけるの……?」
「ね、姉さん?」
「その目が! ムカつくのよ!」
いつになく大きな声を上げた光莉姉さんは、僕を激しく踏みつけた。姉さんの体重はそこまでのものではないと思うけど、人一人の体重をかけた一撃は僕に大きな痛みを与える。
「どうしてよ……そんな目が出来るんでしょ……? 私を哀れむことができるんでしょ……? だったら……」
そして光莉姉さんは、いっそうか細い声を絞り出した。
「……私を、止めてよ……」
「……姉さん? いたっ……!」
今の言葉がどういう意味なのかを聞こうとしたけれど、僕が痛みをこらえている間に姉さんは倉庫から出て行ってしまった。
「いたた……」
光莉姉さんの言葉の意味が解らないままだったけど、授業が始まるので僕は教室に向かった。蹴られた箇所はまだ痛むけど、教室で痛がるそぶりを見せるわけにはいかない。気を引き締めないと。
教室に入ると、クラスの皆が既に授業の準備を始めていた。そう言えば、僕は光莉姉さんのことばかり考えていて、クラスの皆とほどんど話していなかったな……そうだ、『鋭角』のことについて、何か知ってる人いないかな?
でも上級生のことを知っている人間となると、相当限られてくるはずだ。そうだ、部活に入っている人なら何か知っているかもしれない。
そう思った僕は、野球部に入っているクラスメイト――確か小須田猛っていったかな――に話しかけてみた。
「あ、あの……」
「ん、何?」
「あのさ、いきなりで申し訳ないんだけどちょっと質問していいかな?」
「あ? なんだよ?」
「あのさ、三年生に『角谷鋭一』って人がいるらしいんだけど、その人について何か知らないかな?」
しかし僕がその名前を出した途端、小須田くんは顔を曇らせた。
「……ええっと、お前、水島って言ったっけ? もしかして帰宅部か?」
「え? うん、そうだよ」
「じゃあ、知らなくて当然か……ちょっと廊下行くぞ」
そして僕は小須田くんに廊下に連れて行かれた。
「結論から言うぞ水島。その角谷って先輩は相当ヤバい人だ」
教室から離れた廊下の端に着いた直後、小須田くんはそう切り出した。
「や、ヤバいってどういう?」
「俺も部の先輩から聞かされただけなんだけどな。その人がその角谷先輩と同じクラスなんだけど、とにかく自分の考えを否定されたくない人らしいんだ。結構ガタイもいい人だから、誰も逆らえないらしい」
『体が大きい』というのは、あの時見た上級生の特徴と一致している。やっぱりあの人が『鋭角』なんだ。
「それとな、他の部でも一年生には角谷先輩に近づくなって言ってるらしいぞ」
「なんでそんなことを?」
「角谷先輩は不良とかそういうタイプじゃない。俺も一回見たけど、見た目は本当に真面目そうな人だった。だけど先輩が言うにはもう、発言というか考え方が普通じゃないんだよ。だから先輩もクラスではなるべく角谷先輩と関わりたくないんだってよ。一年に近づくなって言ってるのも、単純に危ないからだ」
「普通じゃないって、どんなふうに?」
小須田くんは少し考えた後に、こう言った。
「そうだな、これも先輩が言ってたんだけど、例えばお前が先生に怒られたとするだろ?」
「うん」
「先生に怒られたら、お前もちょっと嫌な気分になるだろ? でも怒られたってことは少しは『自分が悪いのかもしれない』って思うだろ?」
「う、うん。怒られたらそう思うよ」
僕だって今まで大人に怒られたことはあるし、怒られて拗ねたこともある。だけど悪いことをすれば怒られるのは当然だし、怒った方だって理由があって怒っていることがほとんどだった。
「でもな、角谷先輩は違うんだ。一度、角谷先輩が先生に怒られたことがあるらしいんだけどな、その後何が起こったと思う?」
「……何が起こったの?」
そして小須田くんは、一呼吸置いたあとに、気持ち悪いものを吐き出すように言った。
「……怒られた後の休み時間に、同じクラスの女子を殴ったんだってよ」
「……は?」
……なにそれ? 意味がわからない。
「えっと……どういうこと?」
「俺も最初は意味がわからなかったよ。てっきり角谷先輩はその女子のせいで怒られたのかなと思ったんだけど、どうも全く無関係らしい」
「じゃ、じゃあなんで?」
「……角谷先輩は、女子を殴る時こう言ったんだ」
『完全無欠に正しい俺が怒られるわけがない! きっとお前が俺の足を引っ張っているんだ! 全てはお前が諸悪の根源だ! お前は俺によって処罰を受けるべきなんだ!』
「……!?」
いやいやいや、何を言ってるのこれ?
「よ、要するに、先生に怒られた腹いせにその女子を殴ったってこと?」
「俺もそう思うんだけどな。でもそれだと、『自分が正しい』ってくだりはいらないだろ? でも角谷先輩はわざわざそう前置きして女子を殴ったんだよ」
「……」
……この話を聞くだけで、僕は思った。
角谷鋭一……『鋭角』は異常だ。
「俺の先輩はこうも言ってたよ。『あいつの中では「自分が正しい」という考えは揺るがない。だけどそれだと「自分が先生に怒られた」という事実と矛盾してしまう。だからその矛盾をなくすために、原因をそいつに擦り付けたんじゃないか』って」
「そんな……」
だけど僕はそこまで考えて一つの可能性に気が付いてしまった。
「あ、あのさ、その殴られた女子って、どんな人かわかる?」
「え? いや、そこまでは聞いてないな……あ、だけどちょっとクラスでは浮いてる暗い女子だって言ってたような……」
「……!」
まさか……いや、間違いない。
殴られたのは、光莉姉さんだ。
光莉姉さんは、『鋭角』に暴力すら振るわれていたんだ。しかもその理由は、独りよがりでバカバカしい正義感のためだった。
そして僕は、あの時の姉さんの言葉を思い返す。
『……私を、止めてよ……』
光莉姉さんには『鋭角』に立ち向かう勇気がなかった。誰かに相談するにしても、担任はあの鈴木みどりだ。姉さんを助けるなんてことはしないだろう。
そして僕も姉さんを助けることが出来なかった。それどころか、『鋭角』を怖いとさえ思ってしまった。そんな弱い僕を光莉姉さんは憎んだんだ。だから僕に暴力を振るうしかなかったんだ。
だけど姉さんは気づいていたんだ。自分のしていることが『鋭角』と似ていることに。自分の身勝手で他人を傷つける行為が、自分を苦しめている人間がしていることと同じだということに。
だから自分を止めてくれと言った。自分を哀れむことができるのなら、自分に反抗してくれと言ったんだ。本当は光莉姉さんも、僕を傷つけたくなんて無かったんだ。
全ては『鋭角』、角谷鋭一が悪いんだ。
「とりあえず俺が知ってるのはこれくらいだ。水島、やっぱり角谷先輩には関わらない方がいいぞ」
小須田くんはそう言って教室に戻って行ったけど、僕の頭にはもう彼の存在は残っていなかった。
……許せない。あんな優しい姉さんを、そこまで苦しめた『鋭角』が許せない。
僕一人ではどうにもならない? 相手は身体の大きな三年生?
そんなの、関係あるか。
この時僕は、生まれて初めて、心の底から他人のことを『憎い』を感じた。
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