その日の放課後。
角谷鋭一、『鋭角』に立ち向かう決意をした僕は、授業が終わったと同時に光莉姉さんのクラスに向かった。
だけどまだ『鋭角』に対する怖さはある。そもそも相手は三年生だし、今までの話を聞くと、とても恐ろしい相手だという印象が消えないからだ。
それでも僕は立ち向かわなければならない。光莉姉さんのためにも、そして僕たちの幸せな未来のためにも。
そう考えながら、僕は三年生の教室の前に立った。
光莉姉さんのクラスは僕たちのクラスより早くホームルームが終わったのか、既に教室の掃除が始まっていた。光莉姉さんがいるかどうかを探してみたけど、どこにもいない。もしかしたら今日は教室以外の場所を掃除しているのかもしれない。
だけど好都合だ。姉さんがいるところで『鋭角』と話すのはまずい。姉さんが僕に暴力を振るっていることを『鋭角』が知ったら話がこじれるかもしれないし、何より姉さんに僕が怒るところを見せたくなかった。
改めて教室の中を見回してみると、何か違和感があることに気づいた。そうだ、授業が終わっているのに、クラスの人たちが何も話さずに黙々と掃除をしているからだ。僕のクラスもそうだけど、せっかく授業から解放されたのだから、掃除をしている時は少し緩んだ気分になる。だけどこのクラスにはそれがない。どこかギスギスしている気がする。
そして僕はその原因が何か、すぐにわかった。
「さあ皆、床の掃除が終わったら机をすぐに戻そう。わかっていると思うけど、大きな音を立てないように。他のクラスの迷惑になるからな!」
静かな教室にその大きな声はよく響いた。声の主は身体も大きく、それでいて相手に有無を言わせない威圧感がある。
間違いない、この長身に四角いメガネ。そしてきっちりと整えられた髪型。いかにも優等生と言った見た目の男子生徒。
『鋭角』が、このクラスの生徒たちに指示を出していた。
「そこ! 机を置くときは大きな音を立てるなと言っているだろう! もっと他の人のことを考えろ! 気遣いが出来ないとだらしない人間だと思われるぞ!」
『鋭角』は大きな声でクラスメイトを怒鳴りつける。僕が聞いた限りでは、机をおく音よりアイツが怒鳴る声の方がよっぽど大きい。だけど『鋭角』はそんなことを気にしてはいないようだった。怒鳴られたクラスメイトは『ごめんなさい』と小さな声で言うが、眉間にしわを寄せて、不機嫌そうに掃除に戻っていた。
僕はそんな光景を見て、やはり『鋭角』への恐怖心を抱いてしまう。そもそも僕は弱い人間だ。身体も小さいし、力も無い。頭だって別にいいわけじゃない。そんな僕がこんな強大な相手に立ち向かわないとならないんだ。怖くないわけがない。
それでも僕はやらないといけない。僕がこの手で、姉さんを救うんだ。
「あの、すみません!」
僕は意を決して、教室の中に入って声をかけた。
顔も知らない下級生がいきなり入ってきたことで三年生たちは不思議そうな顔をするが、その中で一人だけが真っ直ぐ僕に向かってきた。
「何の用だ? 君は一年生だろう? このクラスに知り合いがいるのか?」
向かってきた男子生徒――『鋭角』は、僕を見下ろしながら次々と質問を投げかけてきた。
「あの、実は……」
「君の話を聞く前にひとついいかな? 君は上級生のクラスに無断で入ったね? こういう時はまずここの担任である鈴木先生に話を通すべきだろう! そういった手順を踏んでいかないと、みんなが混乱する! 君はみんなに迷惑をかけている自覚はあるのか!?」
「え、いや、迷惑ですか……?」
「当たり前だろう! 君はそんなこともわからないのか!?」
『鋭角』は僕の言葉を遮って、大きな声で怒鳴りつけてくる。その声に思わず震え上がりそうになるけど、ここで退くわけにはいかない。
「すみません! そのことは謝ります! でも、えい……角谷先輩にどうしても言いたいことがありまして……」
「うん? 俺に言いたいことだって?」
「はい、このクラスの薬師さんについてのことです」
「薬師……? 君は薬師の知り合いなのか?」
「はい、僕は水島といいます。薬師さんとは小さい頃からの付き合いです」
「ああ、そういうことか!」
僕はまだ本題を話していないのに、なぜか『鋭角』は何かに納得したように大きくうなずいた。そして僕の頭をなでる。
「ちょ、ちょっと……?」
「そうかそうか、君は薬師から俺のことを聞いたのか。それでわざわざ礼を言いに来たというわけだね?」
「え、ええ!?」
「薬師もようやく俺の思いをくみ取ってくれたのか。辛抱強く手を差し伸べた甲斐があったなあ。それで水島くんは薬師のことをどう思う?」
「ど、どう思うって?」
「薬師はあの見た目の通り、暗くて声も小さくてクラスに溶け込もうともしない、どうしようもない女子だ。だけど俺はそんなクズでも見捨てない! そういう信念を持って生きているんだ。俺の言うことを聞いていれば薬師も幸せな人生を送れる。あいつもそれをようやく理解してくれたということだな。いやあ、良かった良かった」
……何だこの人。何を言ってるんだろう。
あんな罵倒を光莉姉さんに浴びせておいて、それどころか手を上げておいて、本気で姉さんに感謝されると思っているのだろうか。だとしたらどうかしている。
「水島くん、君もあいつの友達なら薬師のことを支えてやってくれ。あいつは俺たちがどうにかしてやらないと、どうしようもないクズなのは君もわかるだろう? だけど俺はそういう弱い人間を助けたいという気持ちは誰にも負けない! 今はあいつも苦しい時かもしれないが、俺の言うことを理解したというなら、あいつの未来は絶対に明るい。なぜなら俺が導いているのだから」
「……」
……本気だ。この人、本気なんだ。
本気で自分の一連の行動が、光莉姉さんを助けることに繋がっていると思っているんだ。
今まで僕は、この人は姉さんを苦しめるために口だけで助ける素振りを見せているんだと思っていた。
だけど違う。この人は根本的に違う。
『鋭角』の中では、自分が絶対的に正しいという考えが揺るがない。自分が間違ったことをしていると思っていない。だから全ての行動が善意なんだ。善意で他人を傷つけているんだ。
鈴木みどりの言うとおりだった。この人は他人のことなんてまるで見ていない。光莉姉さんのことなんて、何も知ろうとしていない。
僕は姉さんの良いところをたくさん知っている。今は変わってしまったけど、僕が寄り道をしたときはちゃんと叱ってくれたし、誉めるところはしっかり誉めてくれる優しさもある。心は弱いかもしれないけど、心の底では他人を気遣える優しさがある。
だけど『鋭角』は違う。この人は『薬師を助けたい』と言いながら、光莉姉さんを一貫して見下している。『手を差し伸べてやっている』と考えている。
そんな何も見えてない人が、姉さんを助けられるはずがない。
僕は周りを見る。気まずそうに目を逸らしている三年生たちを見る。
誰か、『鋭角』のこの考えに文句を言う人はいなかったのだろうか? いや、いなかったんだ。今も、そして今までも。誰もそんな人がいなかったからこそ、彼の暴走は今まで止まっていないんだ。
僕はこんな怪物に立ち向かわないといけない。誰も止められなかったこの怪物に。
「あの……」
「ん、おいおい、お礼はいいって言ったろ?」
足が震える。これを言えばどうなるか、僕にもわかる。
でも言うしかない。僕は……姉さんを助けるんだ!
「角谷先輩……もう、薬師さんに……光莉姉さんに関わらないでください!」
その言葉は、おそらく僕が生まれて初めて勇気を振り絞って出た言葉だった。
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