――あの日から、何日か経った。
まず大きな変化としては、『鋭角』がこの学校からいなくなった。詳しいことはわからないけど、表向きは『転校』ということになっている。だけど『鋭角』を知っている人たちの間では、『ああ、ついにやったか』というようなウワサが流れているようだった。僕としても、あいつの行く末なんて興味がない。僕たちの知らない、どこか遠くの場所に行ってくれればそれでいい。
そして土日を挟んだ休み明け。『鋭角』と入れ替わるようにして、光莉姉さんが治療を終えて学校に戻ってきた。当然のことながら、僕は三年生の教室まで、光莉姉さんを迎えに行ったのだけど……
「光莉姉さん、ひさし……」
「……!!」
姉さんは教室の入り口にいた僕を見た瞬間、大げさなほどに身体を跳ねさせた。目を大きく見開いて、身体がガタガタと震えている。
「ね、姉さん……?」
「ご、ごめんなさい!」
そしてその直後、僕の目の前に走り寄ってきて、深々と頭を下げてきた。
「え、え?」
姉さんの行動の意図がわからず戸惑ってしまい、言葉が上手く出てこない。その間にも、姉さんの行動はさらにエスカレートしていた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もうあんなことはしないから……私が晶くんを怒らせていたんだって、わかったから……」
そして姉さんは、しゃがみ込んで床に手を着き――
「もう、私を許してください……」
僕の目の前で、土下座していた。
「ね、姉さん、どうしたの? 僕はもう、怒ってないよ……?」
そう言いながら、僕は光莉姉さんの頭に触れる。しかし……
「ひいっ!」
触れた瞬間、姉さんは身体を跳ねさせて、飛び退くように僕から距離を取った。
「え……?」
「あ、あ! ごめんなさい! 違うの晶くん! 私、本当に反省してるんです! だから、だから……」
そして姉さんは両目から涙を溢れさせながら、僕の足にすがりついた。
「もう、私を殴らないで……」
姉さんは泣きながら僕に懇願してくる。それを見た姉さんのクラスメイトたちが、こっちを見ながらヒソヒソと話している。
「え、えっと……あの、光莉姉さん……」
どうしたものかと考えていたら、僕に声をかけてくる人物がいた。
「ちょっと来なさい」
「あ……」
そしてその人物――黛瑠璃子は僕の手を掴み、強引に教室の外へ連れ出していった。
「アンタ、自分が置かれている状況がよくわかっていないようね」
黛さんは僕を廊下の端に連れてきて、開口一番そう言った。
「え、えっと、状況って言いますと?」
「アンタはあのクラスで危険人物だって思われてるってことよ。なにせ角谷やみんなの前で、『自分は薬師光莉をいじめていた』って言い放ったんだから」
「あ……」
確かにそうだ。僕はあの教室で、『鋭角』にバケツの水をぶちまけたんだった。それなら危険人物と考えられてもおかしくはない。みんながヒソヒソ話し込んでいたのはそれだったんだ。
「そしてそれは、おそらく薬師さん本人も例外ではないわ」
「……光莉姉さんが、僕を危険人物だと?」
「そういうことよ。さっきの様子を見る限りではね」
「……」
……考えてみれば、当たり前か。僕は光莉姉さんを助けるためとはいえ、『薬師光莉』を暴力で支配した。確かに光莉姉さんからの暴力はなくなったし、『鋭角』を学校から追い出すことは成功したけども、それではまだ不十分なんだ。
そう、僕と光莉姉さんが平和に過ごす日常は、まだ訪れていない。
「とにかく、アンタはあのクラスには当分近づかない方がいいと思うけど?」
「……わかりました。忠告してくれてありがとうございます」
「別に。アンタからの借りは既に返したし、多分これから関わることもないでしょう。それじゃ……」
そう言って、黛さんは教室に戻っていった。
もう関わることはない、か……でも僕は、そうは思わない。
一見、ドライに見えるけど、あの人は多分いい人だ。僕はそんな気がした。
……これが昨日のこと。そして現在、僕は黛さんの忠告通り、光莉姉さんの教室には近づかないようにしていた。
姉さんに会えないのは辛いけれども、下手に会って関係がこじれるのはまずい。そう思っていた。
しかし、昼休みになって僕が給食を食べ終わって本を読んでいると、意外な人物が訪ねてきた。
「……晶くん?」
「ね、姉さん!?」
そう、僕が会うまいとしていた光莉姉さんその人だ。
「どうしたの姉さん? あの、この前のことはその……」
そうだ、光莉姉さんは僕に恐怖を抱いていた。間違いなくそれは、僕が暴力を振るったからだ。ならまずはそのことを謝らないといけないだろう。そう思ったけど、どうやって謝ろうか迷ってしまう。
その間にも、光莉姉さんは次の行動に出ていた。
「晶くん、これ……」
「え……?」
姉さんは震える手で、僕に白い封筒を差し出してきた。僕がその封筒を受け取ると、すぐに手を引っ込める。
中身が何か気になったので、光莉姉さんの目の前にも関わらず、僕は封筒の中を覗きこんだ。
そして、目を疑った。当然のことだと思う。
「……!?」
だって、その中には、三枚の一万円札が入っていたのだから。
「ひ、光莉姉さん!? これ……どういうことなの!?」
姉さんの意図が全くわからなかったのと、目の前の大金に対する驚きに、思わず大声で問いかけてしまった。
だけど、それがまずかったようだ。
「あ、ああ! ごめんなさい!」
光莉姉さんは再び僕に対して頭を下げてきた。そう、まるで怯えるように。
「た、足りなかったですよね? ごめんなさい。こんなんじゃ、晶くんの気が済みませんよね? あ、あの、もっと持ってきます。持ってきますから、あの……」
「姉さん、落ち着いて!」
「ひ、ひいいっ!」
何故か謝り続ける光莉姉さんをどうにかなだめようとしたが、僕が触れようとしたら、ますます怯えてしまった。
ダメだ、今の姉さんは冷静さを失っている。だけどこんな大金を受け取るわけにもいかない。
「姉さん、とにかくこれは返すよ!」
「あ……」
僕は強引に封筒を光莉姉さんに押し付けると、逃げるように教室を出て行った。
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