その日の放課後。
「よし水島! 放課後もお前の根性を叩き直してやる! 覚悟しておけよ!」
「……」
僕と『鋭角』は体育館の隅にいた。本来は部活動が使っている場所だが、今日は一部の部活が休みなので、こうしてスペースがあったのだ。
「あの、角谷先輩。その前にひとついいですか?」
「あ? なんだよ?」
「朝にお話しした、薬師さんについての話なんですけど……」
「……ああ、そういえば言ってたな」
『鋭角』は今まで忘れていたかのように呟く。やっぱりこいつにとって、光莉姉さんのことなんてそんなに重要じゃないんだ。姉さんを助けると言いながら、結局は自分しか見ていないんだ。
「それで? 薬師がどうかしたのか?」
少し機嫌が悪そうにこちらの返答を急かしてくる。おそらく『鋭角』は早く僕に自分の正義をぶつけたくて仕方がないんだろう。本当に救いようのないクズだ。
だけどここは冷静にならないと。そのために僕は『鋭角』に言った。
「……実は、薬師さんに謝りたいと思ってるんです」
「なに?」
「僕は本当にどうかしていました。薬師さんにあんなにひどいことをして、到底許されるとは思いません。だけどそれでも、薬師さんに謝って、僕が更生したということを伝えたいと思っているんです」
「……」
ここで重要なのは光莉姉さんに謝るということよりも、『僕が更生したい』という意志を言葉の中に入れることだった。仮に『鋭角』が本当に僕を更生させたいのであれば、この時点で目的は達成されている。つまりコイツにとっては喜ぶべき出来事だ。
だけど『鋭角』が本当に僕の更生を望んでいるかどうかは、今のコイツの怒りに満ちた表情を見れば一目瞭然だった。
「何を言うかと思えば、適当なことを言って俺から逃れようとしているのか!?」
「……」
「お前みたいなクズが! そう簡単に更生するわけがないだろう! どうせ心の中ではほくそ笑んでいるに決まっている! お前が更生したかどうかは俺にしか決められないんだ! お前が勝手に判断するな!」
……やっぱりか。
思っていたとおり、『鋭角』は僕の更生を否定してきた。どうしてコイツがこんなことを言っているのか、僕には手に取るようにわかる。
簡単だ。『鋭角』としては、僕に更生してもらっては困るからだ。
本人も気づいていないだろうが、コイツの目的は僕の更生なんかじゃない。『更生させる』という表向きの理由を作って、僕を一方的に責め立てたいだけだ。僕や光莉姉さんを一方的に見下して、自分の正義に酔っていたいだけだ。僕らを勝手に格下の人間に位置づけて、『助けたい』と言いながら実際に助かってもらっては困るんだ。
その身勝手が、その浅ましさが、僕たちを今まで苦しめていた男の正体だ。
そしてタチの悪いことに、『鋭角』本人も恐らくその自覚がない。自覚なく相手を見下して、自覚なく相手をいじめている。そのくせ自分が正義だという都合のいい思いこみは揺るがない。それが僕は許せない。
だから僕は『鋭角』の間違いを正そうなんてほんの少しも思わない。その間違いを抱えたまま、僕の前から消えて欲しい。
そのために、僕は言葉を続けた。
「ちょっと待ってください。どうしてそんなことを言うんですか!? 僕は本当に薬師さんに謝りたいんです! 例え許してもらえなくても、僕が自分のしたことを悪いことだと考えていることだけは伝えたいと思って……」
「嘘をつくな! お前みたいなクズがそんな殊勝なことを考えるわけがない! お前のやっていることは全て間違いで、俺の言うことは全て正しいんだ! お前は完璧に正しい俺の言うことを聞くべきだ! それが世界のあるべき姿なんだ!」
……やっぱり『鋭角』は聞く耳を持たなかった。まあ、初めからわかってもらおうなんて思ってない。光莉姉さんに謝りたいのは本当だけど、『鋭角』にそれを理解させるつもりなんて全くなかった。
だから、さっさとここから消えろよ、角谷鋭一。
「……角谷先輩。今言ったことを、訂正するつもりはないんですね?」
「当たり前だろうが! お前にそんなことを聞く権利はない!」
「……だそうですよ。聞きましたか?」
そろそろ頃合いだと思った僕は、自分のポケットから携帯電話を取り出して、通話口に声をかけた。
「? お前、誰と話しているんだ?」
「すぐにわかりますよ。ほら来た」
僕は体育館の入り口に目を向ける。『鋭角』もそれにつられて入り口を見る。そこには……
「角谷くん、これはどういうことなんだね?」
今日の朝、『鋭角』に注意をした校長先生が立っていた。
「!? 校長先生……!?」
「先ほどからの会話は、水島くんの電話を通して聞かせてもらっていた。角谷くん、君は水島くんが謝罪をしたいという言葉をまるで無視していたね? それはあまりにも水島くんの思いをないがしろにしていないか?」
……僕は昼休みに、校長室を訪れ、校長先生に『相談』していた。
『鋭角』は、角谷鋭一は僕が光莉姉さんに暴力を振るったことを利用して、僕を激しく罵倒していること。そして僕が心から反省しているのに、それをまるで聞き入れてくれないこと。だから校長先生に、『鋭角』を説得して欲しいということを伝えていた。
光莉姉さんが僕に暴力を振るっていたことや、僕の真の目的は当然伝えなかったが、僕の言葉を聞いた校長先生は自分の目で確かめた上で『鋭角』を説得することを約束してくれた。だから僕は『鋭角』に会う前に校長先生の電話と僕の電話を通話状態にして、彼に一部始終を聞かせていたのだ。
そして今、校長先生は『鋭角』に対して大人として説教をしている。だけどこれだけじゃ、『まだ足りない』。
僕は『鋭角』に、完全に消えて欲しい。校長先生に説教してもらっただけでは『まだ足りない』んだ。
「校長先生! ちょうどよかった、先生からも水島を叱ってやってください!」
「……どういうことだね?」
「決まっているでしょう! 水島は反省しているなんて見え透いた嘘をついて、俺の説教から逃れようとしているんです! そんな甘えた心じゃ薬師は救われない! だから俺と一緒に、水島を更生させましょう!」
この期に及んで、校長先生が自分の味方だと思いこんでいる『鋭角』にはもはや尊敬の念すら覚える。だけどお前の希望が打ち砕かれるのはもうすぐだ。
「角谷くん。私には君の方が問題があるように思えてならない」
「え?」
「君は水島くんの言葉を嘘を決めつけて、聞き入れようとしない。その一方で、自分は正しいと思いこんでいる。それはあまりにも傲慢で、身勝手な考え方だ。それでは水島くんも君の言うことを聞くはずがない」
「な、何を言ってるんですか!?」
あくまで諭すように『鋭角』に話しかける校長先生。やはりこの人は大人だ、『鋭角』とは違う。この人は教師として、僕も『鋭角』も救おうとしている。確かに社会的に正しいのはこの人の方なんだろう。『鋭角』も助けるべきなんだろう。
だけど僕は、そんなこと望んじゃいない。
「聞いてくれ角谷くん。確かに君も薬師さんのために水島くんに厳しい言葉をかけていたんだろう。しかし君はあまりにも他人の言葉を聞かなすぎる。他人の言葉を聞かない者の言葉を、他人が聞き入れるはずがないんだ。君はまだ若い。もっと色々な考え方を受け入れた後でも、自分の生き方を決めるのは遅くない」
「校長先生! 水島を甘やかしてはダメです! こいつには正義の鉄槌が必要なんですよ!」
「自分を正義だと思いこむのは簡単だ。君の言うことも一理ある。だけど水島くんのことも、もう少し信じてあげなさい。君が彼を信じてあげないと、彼も君を信じられない。君のやっていることはイジメと大差ない」
「イジメですって!? 違う! 俺のやっていることはそんな低俗なものじゃない! 例えイジメだとしても、これは『正義のイジメ』です! 水島は大人しく俺の行動を受け入れるべきなんです!」
「何を言っているんだ。イジメに正義も何もあるわけないだろう。とにかく君はやりすぎだ、少し頭を冷やしなさい」
「……」
『鋭角』は目を見開いて、拳を握りしめて振るわせている。……よし、もう少しだ。
「水島くん、君も一度は道を踏み外したかもしれない。だけど薬師さんにはちゃんと謝っておきなさい。彼女には私から連絡をしておこう」
「……はい」
校長先生が僕に話しかけ、『鋭角』の方を再び振り返る。それを見計らって、僕は……
「……!!」
『鋭角』の方を見ながら、あたかも『悪巧みが成功したかのような』嘲笑を浮かべた。
「……校長先生」
「ん?」
『鋭角』は下を向いて何かを呟いた。
「先生は水島に洗脳されているんですね?」
「……なに?」
――僕は『鋭角』と何度か話していて、こいつの考え方のパターンをある程度把握した。
こいつはどうあっても、自分が正しいという考えを曲げない。自分が正しくて、相手が間違っているというクソみたいな考えを支えに生きている。
だから自分が否定された時は、相手に原因を求める。自分ではなく、相手こそが間違っているのだと思いこむ。どんなに突飛なこじつけをしてでも、相手が間違っているのだと思いこむ。
だから『鋭角』は、校長先生が僕に騙されているのだと考えた。
「そうだ、先生は水島に洗脳されているんだ! そうでもないと、先生が俺を否定するはずがない! 先生は正しい人間の味方をするはずなんだ! 他でもない俺を味方するべきなんだ!」
「何を言っているんだ君は? 私は洗脳などされていない!」
「いいや、先生は水島に騙されて、洗脳されているんです! 俺が先生を助けてあげます! 安心してください!」
「角谷くん、いいかげんにしろ! 君は自分の思い通りにならないから駄々をこねているだけだ!」
「やっぱりだ、校長先生……俺があなたを助けます! だから……」
『鋭角』は決意した顔で、校長先生に向かっていき……
「す、角谷くん!? ぐわっ!?」
「俺があなたの洗脳を解いてあげます!」
校長先生の顔を思い切り殴った。
床に倒れた校長先生に、『鋭角』は馬乗りになる。
「や、やめ……ごぶっ!」
「大丈夫です! 俺がきっとあなたを助けます! だから我慢してください!」
「だ、誰か……助け……あがっ!」
「まだか! まだ洗脳が解けないか! 校長先生の間違いを、俺が正すんだ!」
そして馬乗りになって校長先生を殴りつける『鋭角』を見た体育館の教師や生徒たちが騒ぎ出した。
「お、おい、あいつ何やってるんだ!?」
「誰か止めろ! おい、他の先生も呼んでくるんだ!」
そして何人かの教師が、『鋭角』に飛びかかり、押さえつける。
「はなせ! 俺は校長先生を助けないといけないんだ! それがこの学校のためなんだ!」
押さえつけられながら暴れ回る『鋭角』を、僕は冷めた目で見ていた。なぜならこの状況こそが、僕の狙いだったからだ。
『鋭角』が校長先生の説得に耳を傾けるなんて思っていなかった。むしろ逆上して何らかの行動を起こす確率の方が遙かに高かった。だから僕は校長先生を利用することに決めたのだ。
校長先生なら、『鋭角』を論理的に追いつめて、暴力で解決せざるを得ないようにすると思ったからだ。
僕は殴られて意識が無くなっている校長先生を見る。ありがとうございます、あなたには恨みも怒りもないし、むしろ尊敬すらしていますが、僕と光莉姉さんのために犠牲になってもらいました。すみません。
だけどこれで『鋭角』は僕たちの前から消える。一生、自分以外の人間が間違っていると思い続けてろ、僕たちがいない場所でね。
そう、これで僕と光莉姉さんの平和な日常が戻ってくるんだ。やっと昔みたいに過ごせるんだ。
――そう、思っていたのに。
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