ぼくは『同い年の女の子』に恋をしたことはなかった。
小学校の時でも、同じクラスの女の子たちを『かわいい』と思ったことはあっても、『好き』だと感じたことはなかったんだ。でもそれは、ぼくが他人に興味がないというわけじゃない。ただ単に、その女の子たちが恋をする対象ではなかっただけなのだと思う。
ぼくの友達は、六年生になるころには気になる女の子について話していたりもしていた。だけどぼくはその話にどうしても入る気になれなかった。
思えば、そのころからぼくにとって、『恋する相手』は決まっていたのかもしれない。
ぼくは小学校が終わっても、真っ直ぐ家には帰らなかった。寄り道は悪いことだって先生が言っていたけれども、それを真面目に守っている子なんて、六年生にはほとんどいなくなっていた。
冷たい風が吹き抜ける道路を、身を震わせながら歩くぼくだったが、心の中は暖かい気持ちだった。だって今から、『光莉姉さん』に会えるんだから。
十分くらい歩いたころ、ぼくは目的の場所である中学校に着いた。まだ授業は終わっていないらしく、中学生の人たちが出てくる様子はない。
はやる気持ちを抑えながら、ぼくは『光莉姉さん』が学校から出てくるのを待った。ぼくみたいに六年生になっても、小さい体のままの男子が中学校の前にいるのは目立つかもしれないけど、それでも構わなかった。
そして授業が終わり、中学生たちが学校から出てきた。ぼくはキョロキョロと目を動かし、姉さんの姿を探す。
あ、見つけた。
遠くでもわかるくらい長く伸びているその髪は、ぼくの視線を釘付けにした。姉さんの髪は、ずっと前にどこかで見た日本人形みたいに重たくて暗い印象を受けるけど、その下にある真っ白できれいな顔がぼくは好きだ。そう、好きなのだ。
そう、この人こそがぼくが恋をしていると言える相手、薬師光莉――光莉姉さんだった。
「姉さん!」
ぼくは学校でも滅多に出さない大声で姉さんを呼ぶ。すると姉さんはピクリと身体を震わせた後に、ぼくに気づいてしずしずと歩いてくる。
「晶くん? またここに寄り道しに来たの?」
姉さんは切りそろえられた前髪の下にある眉を寄せて、困ったように言う。その声はか細く、消え入りそうなものだったけど、ぼくはちゃんと聞き取れた。小学生であるぼくが中学生である姉さんに話しかけられているせいか、周りの人たちがみんなぼくたちを見ていた。
「ごめんね。でもぼく、どうしても姉さんに会いたかったんだ。だって最近、姉さんがちょっと困っているみたいだったから……」
「……心配してくれてありがとう。でも、真っ直ぐ家に帰らないで私に会いにくるのはやめてね? 私が晶くんのお母さんに怒られちゃうんだから」
「あ、そ、そうだよね。ごめんなさい……」
そうだ。ぼくが寄り道した理由が姉さんだったら、姉さんがみんなに怒られてしまう。そのことを考えていなかった。
「でも、ありがとう晶くん。私のこと、そんなに心配してくれてたんだね」
「うん! だってぼくは……」
思わず『姉さんのことが好きだから』と言いそうになったけど、直前に恥ずかしくなって口を閉じてしまった。顔を真っ赤にしているぼくを姉さんが不思議そうに見ている。
「どうしたの?」
「な、なんでもないよ」
ぼくは姉さんの色んなところが好きだ。みんなが『重たくて邪魔そう』と言ってるその日本人形みたいな長い髪も、それとは対照的に白い肌も、物静かな動きも小さくか細い声も、その全てが好きだ。
だから姉さんと同じ中学校に入るのが楽しみだった。ぼくはもう六年生。来年にはこの中学校に入ることが決まっている。そうしたら毎日学校で姉さんと会えるんだ。
だからぼく――水島晶にとって、二つ年上の幼なじみである光莉姉さんと一緒に過ごせる中学校生活はきっと楽しいものになる……そう信じて疑っていなかった。
――この時は。
……僕は半年以上前の出来事を思い出していた。
成長期であるはずの僕の身体は、あの時からちっとも大きくなっていない。そのせいか僕の性格や本質も全く変わっていない、そう思っている。
だけど僕を取り巻く環境は大きく変わってしまった。毎日通っている場所が小学校から中学校になり、肌寒かった風も、今は生ぬるい。周りの大人も、ちっとも身体が大きくなっていない僕のことを成長した男子として扱い始め、小学校の頃のようなわがままや人任せな態度は取れなくなっていた。だけどそれは別にいい。僕だって、いつまでも子供扱いはされたくない。
だけど……一つだけ変わって欲しくないことがあった。
小学校のころを思い出しているうちに、いつのまにか学校に着いていた。中学校に入ってもう二ヶ月半。さすがにもう、通い慣れてきている。だから考え事をしていても、自然に足は学校に向かっていた。
「はあ……」
だけど僕は学校を見て、思わずため息を吐いてしまった。僕にとってこの中学校という場所は、決して逃げることの出来ない牢屋みたいに重い空気を漂わせている。
どうしてだろう、どうして『こんなこと』になってしまったのだろう。僕にとってこの学校は、楽しさで溢れていたはずなのに。
「晶、遅いじゃない」
聞き慣れた声に名前を呼ばれて、ビクリと身体を跳ねさせてしまう。
恐る恐る顔を上げると、そこには予想通りの人がいた。
「アンタ、中学生にもなって時間も守れないの……? 私はもっと早い時間に来いって言ったよね……?」
「は、はい……」
変わらない。そのか細い声も、日本人形みたいに長く重たい髪も、白くきれいな肌も、整った顔も。
だけど姉さんの目だけは、以前とはかけ離れた冷たい視線で僕を捉えていた。
「あのさ、先生に何か言われたら私が困るの……。晶は私を困らせたいの……?」
「そ、そんなこと、ないよ……」
「だったら、早く来なさいよ」
「……うん」
僕は姉さんに連れられて、学校の中に入っていった。
光莉姉さんが僕を連れて入っていったのは、体育館の用具倉庫だった。特に鍵がかかっていないため、中に入るのには苦労しない。
だけど僕の気分は沈んでいた。これから何が起こるかわかっていたから。
光莉姉さんは倉庫の扉を閉めると、跳び箱で入り口を塞いで、さらに棒で引き戸が開かないようにした。姉さんとしても、人に見られたらまずい行動だということをわかっているのだろう。
「晶、何でここにつれてこられたかわかる……?」
「え、えっと……」
僕が答えられないのを見て、姉さんが顔をしかめたのと同時だった。
「ぐうっ!」
突然、僕のお腹にピリッとした痛みが走る。そしてジンワリと痛みが広がり、お腹に気持ち悪さを感じた時には、『光莉姉さんにお腹を殴られた』ということを理解した。
「あ、ぐ……」
姉さんは特に運動をしているわけではないし、同い年の先輩と比べてもそれほど身体は大きくないと思う。それでも、二歳年上の姉さんから殴られれば、身体の小さい僕にダメージを与えるには十分だった。
「何で答えられないの……? 晶、だからアンタは弱いのよ……」
うずくまる僕を、姉さんは冷たく見下ろす。そして姉さんは僕の胸に蹴りを入れてきた。
「がふっ!」
蹴られた勢いで、後ろにあったボールのカゴに背中を打ち付けてしまう。
痛い。すごく痛い。だけど身体の痛みよりも、あの光莉姉さんが僕にこんなことをしているという事実が僕の心を抉ってくる。
「……どうしてアンタは私より弱いの……? どうして男のくせに、私に刃向かわないの……?」
姉さんはボソボソと何かをつぶやきながら、もう一度僕を蹴った。
「はぐっ!」
「アンタがっ! 弱いからっ! 私はアンタをこうするしかないじゃないっ! アンタが強ければ、私は……!」
姉さんは尚も小さな声で、僕への不満をぶちまけてくる。わからない。どうしてこうなかったのかわからない。
だけど今の僕は、変わり果てた光莉姉さんの中に昔の姿があることを信じていたために、その暴力を無抵抗で受け入れるしかなかった。
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