時間は過ぎ去り、ただいま午後八時。第四階層は天井があるため、月の光が差し込みにくい。
代わりに階層全体の街路灯や魔術灯が点灯し、ふんわりと温かい光に包まれる。
それは家の中にも差し込んできて、この森の中にある家だって例外ではない。
「……」
「ん、どしたのエリスちゃん。スケジュール表なんて見て」
「……」いたい
「……ああそうか。明日は……採血の日だったね」
レベッカも顔を暗くし、エリスの隣に座る。
「嫌よね~、血を抜くの! ぶっちゃけて言うと私もやだ! 痛そうにしてるの見ると、私まで辛くなるもの!」
「……」いたいいたい
「……でも、本当に一瞬だから! 少し我慢すれば、お終い! 終わったら苺を食べよう! ね?」
「……」いたいいたいいたい
「ネム~」
「~……」
近くで話を聞いていたネムリンに近付き、すっぽりと顔を埋める。
いたいいたいいたいいたいいたい
そこにネムリンの主君ローザがやってきて、
「おっすおっす、あいつらもう上がったようだぜ」
「そっか、じゃあ次は私達?」
「折角だから三人で入ろう。狭いかもしんねえが何とかなるなる」
「……」
風呂は魔術回路が通された物が設置されており、起動させるだけであっという間に浴槽の水が沸く。とはいえそこまで融通が利くわけではないようで、
「あっつう゛!!」
「煮え滾っているわね……」
「|円舞曲は今此処に《サレヴィア》!! |円舞曲は今此処に、《サレヴィア・》|残虐たる氷の神よ《カルシクル》だよボケエエエエエ!!!」
ローザの手から氷が飛ばされ、沸騰した湯と混じって冷めていく。
「ちょっとー!? 水溢れる!! 洗面所まで溢れちゃうわよー!!」
「あーお前の方で何とかしやがれ!!」
「はぁ!? ちょっと待って!! エリスちゃん、もーちょっと待っててねー!!!」
「……」
こうして服を脱いでから、湯船に身を沈めるまでおよそ五分。
「ああもうー……関節が痛いんですけど。これじゃあ薪でやるのとどっちがマシだが……」
「女しかいねえんで魔術回路が通ってるやつで頼んだんだがなあ……どうしてこうなりやがった……」
「もう、この、ウィングレーの実験の犠牲になってる感……」
「「ふう~~~……」」
「……」
深さ一・五メートル、横は三メートルで縦も二メートル。一人で入ればゆったりとできる程の広さだ。三人入っているのでちょっと狭い。
レベッカとローザの間に入る形で、エリスは熱さに身を委ねている。
「ほら、エリスもやってみろ。縁にべたーってやって、水をだぱーって」
「……」
べたー
だぱああああああああ
「この、水を思う存分無駄にする感覚がね、たまらねんだわ……」
「シャワーで済ませちゃうと勿体ないよね~……」
「……」
バックスを憎む心がちょっと芽生えてきたが――
「……?」
ローザの右肩を見て、それに気が取られていく。
「……ん? どうしたよ」
「ローザ、貴女の右肩でしょ。こんなに黒かったら、気になるわよねえ」
「……」
まるで墨でもぶちまけたように、ローザの右肩が黒く染まっている。他の肌と比べてしっかりと浮き立つ。
「ああそうか……生で見るのは初めてかな、奈落の刻印は」
「……」
頷いた後、申し訳なさそうに顔を背ける。
「いや、そんな顔すんな。もう慣れたから。寧ろ初見で興味持つなっていう方が無理ある」
「……」
「黒魔法あるだろ。アルーインに出てきた奈落の化物、あれを生み出してしまうやべー魔法。それを使うとさ、こうやって身体のどっかに、黒魔法を使ってしまった証明が残るんだよ」
「……!!」
「そうだよな、そういう反応するよな。私が黒魔法使ったんじゃねーかって……でもな、違うんだよ」
後ろの壁に背中を押し付けるローザ。湯煙の中で、ふぅと一息ついてから続ける。
「私の親父がさあ……フリーランスとか宣って、黒魔法の研究してたんだよ。でも段々研究が上手くいかなくなって、ストレス発散だったんだろうな。私の母さんに無理矢理行為を迫ってさ。それを続けていたある日に避妊が失敗して、そうして生まれたのが私だ」
「親が刻印持ちなら、その子も刻印を持ってしまう。まあ実際に黒魔法を使ってたわけじゃないから、私のは塗り潰したみたいになって汚いんだけど。親父のは雪の結晶みたいな紋様だったんだよな」
「でも刻印の継承は一代限りらしいぜ。子世代で黒魔法使わずにいれば、孫世代になると綺麗さっぱり消滅している……稀にそうじゃないこともあるらしいが。とにかく私は見たことねえな。とまあ、そういうことだ」
「……」
「触るか? いや特に意味はないんだけど」
首を横に振り、レベッカに抱き締めてもらう。
「何か……慣れた口調だったわね」
「まあ何度も色んな人に説明してっからな……」
「……」
「……小さい頃はこれがさ、周囲から疎外される原因になってたんだよ。他の子と遊ぶようになってから、自分には他の子にない物があるって気付いて。それをからかわれたり、気になってしまったり……最初は親父とお揃いだーって、めっちゃ喜んでたんだぜ。昔に戻れるならぶん殴りてえわ」
「……お父様は今何を? って訊くまでもないんでしょうけど……」
「研究内容がバレちまって、アエネイスにぶち込まれたよ。私が十一歳の時だ。その後に叙勲式があって、やってきたネムリンに一日中顔を埋めてたっけなあ……」
人差し指と中指で棒状の物をつまんで、吸う素振りを見せる。
「……理に逆らった故の、神からの罰。そう呼ばれてるんだ、奈落の刻印は」
「とはいえ望んで逆らった人間しかいないわけじゃないから、そこんとこ気を付けてくれよ……さあ、身体もあったまったし、洗おうぜ」
ざぱあとローザが立ち上がり、エリスを手招きする。それに続くことにした。
「……」
椅子を持ってきて座り、鏡に映る自分と対面する。
「おっと、鏡が……どうする? ここでいいか?」
「……」
「ん、そうかそうか。まあどうせ曇るしいいか……」
ネットに石鹸を擦り付け泡立てた。
「レベッカ、包帯の下は……このままでいいか?」
「うん、まだ経過観察」
「了解した……」
身体のあちこちにある痛々しい傷、それを覆う生々しい包帯。
「むず痒いよな、わかるわかるぞぉ……」
「……」
「ん? どうした?」
「……」
じっとローザの目だけを見つめているが、何か言えるわけでもない。
「ん~……ここ風呂だからねえ。書くものがないし……」
「いや、それならこれを使おう」
曇った鏡の縁をバンバン叩く。
「まあ短い文ならこれでもいけるいける。書いてみてみろ」
「……」
『昔、こういうことがあった気がします』
「……昔、ねえ」
「こういうことって、背中を流してもらうことか?」
「……」
こくこく
「そうか……そうか」
お湯をかけて、泡を流し落とす。直前に水の魔力を注いで、刺激を与えないぬるめにしてある。
「きっと母さんとかにやってもらったんだろ?」
「……」
「んんー? 母さんじゃない? じゃあ……姉ちゃんか?」
「……」
「それもわかんないか。となると、ずっと昔のことなんだな」
「姉がいるって話は聞いてないけど……近所の子にやってもらったとか?」
「……?」
「それも違うって? じゃあ真面目にいつの記憶なんだか」
「……」
「……まあいいけど。今はそうやって、懐かしい気持ちになれることが重要よ……」
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