『かの者、名状し難き者、生死を司る者、大いなる風を司る者』
『信仰を志すのであれば、様々な供物を整えよ。即ち黄色の衣、五芒星の印、そして新鮮な死体……』
「その史料気に入ったかい?」
「勿論さ。ここまで鮮明に描写されているのは珍しい」
パルズミール地方北方、猫の獣人の自治区ターナ領。
領主キャサリンは、自分の屋敷にある地下牢にて、閉じ込めていた囚人に今日もちょっかいを出しにきた。
その囚人の名はハスター。魔法学園で教鞭を取っていたことがあるという、黒魔術師だ。
「もう一方は使い物にならないのに、キミは至って優秀だ」
「お褒めに預かりまして光栄ですよ……」
奥で縮こまっているそのもう一人をちらちら見ながら話す。
キャサリンと話している間も、ハスターは手元にある史料を穴が空く程見つめている。それはある遺跡から発掘された文章を、精巧に模写したものだ。
「ジェラルト・ハスター。名前はロシェに教えてもらったよ。でもそれは偽名なんだろうなあ」
「わかりますか?」
「土地柄ねえ、ボクもちょっとは嗜んでるんだよ。ハスターは影の世界に由来する名前だ」
黄色の衣を纏ったその者は、影の世界において風を司る神であるのだという。
「さしずめキミは魅了されたってことだろう。黄色いスカーフはその象徴だ」
「ふふ……キャサリン殿。逆にこれだけ鮮明な史料に触れられる環境であるのに、興味を惹かれない方が難しいと思いますが」
首元のスカーフを撫でつつハスターは言う。
「周囲に満ち溢れてると、一周回って正気に戻るんだよ。これはやはり狂気だって」
「それは残念なことだ……影の世界という、素晴らしき知見の数々。狂気などと一蹴してしまうとは」
キャサリンは気に食わないのか眉を釣り上げる。
「ボクは自由に生きていきたい性分なんでね。狂気なんぞに縛られるなんて最もごめんだ」
「ですが貴女も……」
その時、地下牢の大扉が、大きな音を立てて開かれた。
「――キャサリン様!!! 大変なんだ!!!」
大慌てで入ってくる、猫の獣人の子供。三毛模様の彼は、自分が気紛れで養っている孤児であることを知っている。
「……一旦落ち着いて。その上で何が大変か教えろ」
「はあっ、はあっ……! あの、黒いローブを着た奴らが、襲いかかってきたんだ!! お屋敷の人、あとロシェ兄ちゃんも、皆戦ってる――!!!」
キャサリンは直ぐにハスターの方を見遣る。
彼は勝ち誇ったかのように、不敵な笑みを浮かべているだけだった。
「ああもう……わかった、わかった。キミと兄弟達は安全な場所に避難してろ。いいか、一緒に戦うなんて思うんじゃないよ」
「わかった! 皆にも知らせるね!」
地下牢から外に出てみると、先程までは晴天だったのに、今は竜巻のような黒雲が覆い尽くしている。
それは今目の前で戦闘を繰り広げている、黒いローブの連中が生み出していることは直ぐに見て取れた。
真っ先に信頼できる部下の元に向かう――
「お疲れさん。兄弟達には避難するように伝えたよ」
「キャサリン様! ……そうでしたか!!」
短剣と杖を用い、武術と魔術双方から攻撃を仕掛けているロシェ。相棒のグレッザも棘をばら撒き主君のサポートに徹している。
「で、貴女様が来てくれた以上は、何かしら戦況を変えられる策をお持ちしてますでしょうね!?」
「ああ、変えてやる――というより、これは不毛な戦いだから、とっとと終わらせる」
屋敷には指一本触れさせまいと、必死に奮闘する猫の獣人達。
部下であり家臣であり、時々身内も混じっている彼らを、キャサリンは押し退けて前に出る。
その手には橙色の石を携えて――
「聞け! ターナ家当主、キャサリン・パルズ・ターナが参じた! 諸君等が何を要求しているのかは、予想が付いている! この魔石だろう!」
今なお輝きを保つそれを掲げると、攻勢は一気に静まる。
「そんなに欲しいならくれてやる。だからこの、意味のない戦闘はとっとと終わらせろ!」
大気をも震撼させるそれを、ぞんざいに適当に放り投げる。
地面に落ちる前に黒い霧が発生して、魔石を包み込んで消え去った。
「……」
同時に黒天も晴れていく。陽の光が差し込む頃には、戦闘の記憶が遠くに消えそうになってしまう。
「……キャサリン様!! ご報告します!!」
彼女を引き戻したのは、部下である騎士の酷く慌てた声。
振り返ると彼は息を切らして立っていた。呼吸が整うのを待って話を聞く。
「く、黒い雲が薄れる少し前に……地下牢から爆音が聞こえました。確認した所、三十六番室に大きな穴が……」
「そこには二人入っていたはずだ。状況は?」
「……人間と思われる形の、焼け爛れた死体が……一体、です。その他は……」
「あ、それだけで十分だ。キミは引き続きそっちの処理よろしく」
承知しましたと言って去っていく騎士を見送った後、隣にいたロシェに向き直る。
「ま、何だ……こっから先は、余計なことに首を突っ込まないように願おう」
「……本当にな」
「でも……いいんですか。あの魔石、あんなほいほい渡しちゃって……」
「あの攻撃だと、多分こっちが全滅するまでやるつもりだったよ。ボクだって領主だからね……民の命をそう簡単に投げ捨てられないよ」
「昔の貴女は割とそうだった気が?」
「改心したんだよ。影の狂気に当てられて目が覚めたんだ。ってことにしておいて」
さて帰ろうかと思った矢先、今度はどたどたと足音を立てる子供達が目に入る。
「ロシェにいちゃんー!!!」
「キャサリンさまー!!! ごぶじでちゅかー!!!」
「ちょっ、おまえ押すなよ!! おれ転びそうになったぞ!!」
「何よぉトロい方が悪いんでしょうが!! ふぇぇ……」
全員が子供で、全員が猫の獣人。
ロシェと同時期に拾った、屋敷で養っている孤児の子供達だ。彼からすると目に入れても痛くない弟、妹分である。
「お前ら……無事で、何よりだ」
「何でぇー兄ちゃん泣きそうになってんのぉー!
「ぼくらはいつだって無事だよ! ねえキャサリン様!」
「おいおいボクに振ってくるかよ……まあいいや」
泣き叫ぶ子供の一人を抱きかかえ、キャサリンはようやく歩き出す。
「ま、取り敢えず帰ったら飯にしよう。戦いすぎてお腹が空いたよ。コックに美味しい包み焼きを作ってもらおう……」
血は繋がっていない彼らと共に、共に食事を頂くべく、歩みを進める。
猫は世界中のどこにでも生息している。それが昏い気配の立ち込める、影が偲ぶ土地であっても――
彼らは生きていく。自由気ままに、気紛れに。
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