ナイトメア・アーサー

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第五章一節 胎動する真実/現世駆ける騎士の唄

第六百六十六話 断章:在りし日の追憶

公開日時: 2021年7月1日(木) 08:44
文字数:2,462

 母が大好きだ。


 母は何物にも変え難い宝物だ。生まれた時から傍にいてくれて、とても可愛がってくれた。だから死んでしまった時はとても悲しかった。


 母は家族からも愛されていた。父も二人の兄も、皆優しい母が大好きだった。だから死んでしまった時は皆大粒の涙を零していた。

 母は従者からも愛されていた。仕える者は誰もが母に出会えて幸せだと言っていた。だから死んでしまった時は誰もが嘆き悲しんだ。

 母は領民からも愛されていた。母の姿を見ると誰もが喜んだ。だから死んでしまった時は街中が悲しみに包まれた。


 ほら――母についての記憶はこんなにも覚えているじゃないか。


 母は領民からも愛されていた。誰も母の死について語らないのは、そうすると思い出して悲しくなってしまうからだ。

 母は従者からも愛されていた。彼等が母の肖像画や使っていたアクセサリーを片付けていたのは、それを見ると思い出して悲しくなってしまうからだ。

 母は家族からも愛されていた。家族が母について語る時苦しそうなのは、本当にそう思っているからだ。


 母は何物にも変え難い宝物だ。顔や声を思い出せないことなんて、些細なことであるのだ。顔や声が思い出せなくても、愛し愛されたことには変わりないのだ。


 どうして思い出せないんだ。それは顔を見たことがないから。それは声を聞いたことがないから。どうして見たことも聞いたこともないんだ。




 その疑問に行き付く度に、自分の中で眠る狼が一つ遠吠えをして、現実に引き戻してくる。そんなことを考える必要はないと。


 考えたらお前は壊れてしまうと――




 ごめんなさいねと笑う母の顔だけは覚えている。

 







 風魔法を操り最近では弓の訓練も始めた。どちらもよく身体に馴染む。幼い頃から好き勝手操っていた賜物だ。

 そうだそうだ、思い返してみれば、昔から自分は問題児だった。母は物心ついた頃には死んでいたので、父と使用人が教育係。連中の目を如何に掻い潜って、礼儀作法の教育から逃げるかが毎日のハイライトだった。この家の未来が懸かっているのですと、涙ながらに連中が懇願してくるので、それを嘲笑いながら逃げ回るのは最高に楽しかった。


 貴族として生まれたのに、どうしてそんな考えに思い至ったのか。いつから思い至ったのか。記憶を遡ってみると、転換点というものは確かに存在していた。


 それまでは素直に教育を受けていたのだが、ある日突然嫌になったのだ。何もかも面倒臭くなって、逃げたのは近くに広がる森。大人達は森は怖い魔物が出るから入ってはいけないと言っていたが、実際には風魔法で吹き飛ばせるぐらい弱かったので、脅威にはならなかったのだ。

 森を進む目的が次第に逃亡から探検に変わる。そうして入った森は、木々が生い茂って日光を遮っているのに、何故か森の外より温かく、そして心地よかった。


 心地よさの気配を探ってやろうと、辿っていった先にあったのは洞窟。明りになるような物は何も用意されていない程古びていて、何よりそこだけ周囲に比べて不自然だった。殆ど手入れがされていないのに、神秘的な雰囲気だけが漂う。けれども未知に対する恐怖より興味が勝った。

 洞窟の道中は様々なことを教えてくれた。弓の扱い方、狩りの極意、緑の育ち方、獲物の特徴、薬草の見極め方、最も効能の高い薬の作り方、美味しい作物の育て方、素材の良さを最大限引き立たせる料理の方法、生きていくのに必要な心構え。


 そして最深部に辿り着いた時、目の前に広がった光景全てに、幼かった自分の心は全て奪われていった――




 父が叱らずに頭を撫でてくれたことだけは覚えている。







 母は理想の人。父は憎むべき人。そう認識して今まで生きてきた。


 父が自分の父として存在しているのは、母を殺した罪悪感から。父が自分を養育しているのは、母の代わりになろうとしているから。父が自分に好意的なのは、母が死んだことで生まれた溝を埋めようとしているから。

 そんなものは必要ない、勝手に自分本位で関わってくるな。お前は母を殺した。その事実だけで十分だ。存在理由も何もかも。お前は温厚の仮面を被った極悪人――


 本当にそうだろうか?


 母の植物に対する研究は、本当にエレナージュの砂漠は砂漠のままなのかという疑問から始まった。故にそれを引き継ぐ覚悟があるなら、この視点を持たなければならない。


 本当に父は、母に何らかの悪意を持って殺したのか?


 関係ないことだろう、目を背けろ。今更それを考えたら、自分の思考からこれまでの日々まで全てが壊されることになる――




 どうかあの人には気を付けてと遺して母は息絶えたことだけは覚えている。

 




 




 どうして自分は穢れた血が混じっているのか。幼い頃はそればかり考えていた。


 理由は使用人から卑しい目で見られ続けることでもない。町の人から蔑まれることでもない。弟と比較されることでもない。ただ父の期待に応えられなかった――それだけだ。

 父は優しく強い人。民を思う理想の領主。母は知っての通りクロンダインの難民なので気高い身分の父こそが誇りだった。故に父に貢献することで自分の尊厳を取り戻そうとしていたのかもしれない。


 友人もできた今となっては笑い話の種になる程度のこと。それでも引っ掛かる事項はある――希望という言葉の意味だ。


 それは幼い頃に、時折父が投げ掛けてくれた言葉。どうして穢れた血が流れているのか訊くと、それを用いて返答してくれた。穢れているのに、劣っているのに希望とは、一体どういう意味なのだろう。もしも自分が希望であるのなら、その通りに動くことが父の期待に応えることになるのだろうが、一体どうすればいいのか――




 何も無い壁に向かって父が吸い込まれていった光景だけは覚えている。










 運命と陰謀が胎動を始め、それに飲み込まれるかのように過ぎていったこの一年。更なる力を求めて、勉学にも訓練にも身が入るというもの。


 けれどもどれだけ夢中になっても消え失せることのない――記憶の底に眠っているこの違和感は、一体何だというのだ。


 アタシは、ぼくは、ワタシは、俺は、知らぬ間に真実に触れ、そして押し殺していたとでもいうのか――

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