『ねえネームレス、ネームレス! どうしてあなたは私に名前を教えてくれないの。私にあなたの名前を呼ばせて、心からの愛を込めて!』
「『初めて会った時から言っているだろう、私の名前はもう捨てた。過去の栄光と共に行方不明になったんだ』」
『またそう言って、あなたは逃げようとする! 私の愛を受け入れてくれないのはどうして? 私はあなたを、こんなにも愛しているの!』
「『落ちぶれて酒に薬に走るような、こんな私のことをか。ならば一言返事をしよう、諦めなさいと』」
『いいえ、私の相手はあなた以外に考えられないわ。あなたと一緒に薪の上で寝て、魔物の肝を舐める日々を送ってきたんだもの――数を数えるより、あなたの気持ちを読む方が簡単だわ。それなのにどうして私を拒むの?』
「『理由なんて幾らでもあるさ。私はもう年が行き過ぎた。中年と美女の夫婦だなんて、周囲から何と言われるかわからない』」
『そんなこと些事に決まっているでしょう? 皆が馬鹿にするようなら、私はあなたをこう紹介するわ。私を導いてくれた、偉大なる演出家だって!』
「『だとしても世界は受け入れないさ。結局私は落ちぶれて、君は舞台で名声を手にしている。君が雪灰の光の下に舞うのなら、私はその陰で君を見守り続けるだけ。決して二つは交わらない』」
(交わる資格なんて、元からなかったんだ)
『本気でそう思っているの。言ったでしょう、私はあなたの気持ちは読めるのよ。それはあなたの本心じゃない、嘘をついているわ!』
「『そうだな、きっとそうかもしれない。本当は私も君のことを愛しているのかもしれない。ただ私と結ばれることで、君は不幸になってしまうのは火を見るより明らかだから、それに対しての根拠を述べているだけだ』」
『――どうしても返事を覆すつもりがないなら、これだけは教えてちょうだい。交わらないと思っているなら、どうして私を救ったの。足を挫いて、両親の死を嘆いて、寒い寒い雪の夜に出ていった私を、どうして引き留めたの――』
「『ああ……ならばこの機会に教えておこう。全てはそれに集約される』」
「『……もう一度夢を見たかった。夢を捨て切れなかった。演出家として素晴らしい役者を育て、花開く姿を見届けることを、あと一回だけ堪能したかった』」
「『そうした、自分本位で我儘な――傲慢で、欺瞞な、己を慰める行為として――君を救い、育ててきたのだ――』」
「……カル。感動してっか?」
「……」
「観ろよ……リーシャ、とにかく凄いぜ。あんなに氷を纏って……」
その光景に目を見開く。
幻想とでも見紛うような光景が、そこには広がっていた。
(わぁ……! 何これ、凄い、凄い……!)
(こ、これはさぷらいずなのです……? きれいなのに、力がわいてくるのです!)
四肢が曲がるのに共鳴して、雪の霧が麗しく彩る。
身体が曲がるのに呼応して、雪の華が艶やかに揺蕩う。
さながら演者と雪とが一体になったかのような光景――
今日という日の中で、一番の素晴らしい演技を観せてもらっていると、誰もが確信していた。
(みんな、みんな、リイシアのえんぎにかんどうしているのです……!)
(先輩も観ててくれるかな? 私、こんなにやりました!)
「……美しいですねえ」
「ああ、流石の俺もこれには見惚れちまうな」
「雪華を我が物のように操る踊り子……確かこの戯曲のラストシーンですよね?」
「何だと、音楽に合わせたナイスパフォーマンス? リーシャチャンかなりのツワモノだね?」
「魔術を組み合わせた技は難しいと聞きますが、きっとカルに観せようと思って頑張ったんでしょうねえ――」
さぞかし感動していると思い、ノーラとパーシーはカルの顔を覗くが。
そこには思いもしない表情が浮かんでいた。
「……カル? おい?」
ヒルメが手を振ったり身体を揺すったりして反応を窺うが、彼は舞台を注視しているままだ。
まるでこちらの声が聞こえていない――
(……踊り子ヴェローナのダイヤモンドダスト)
(それが舞っている時、演技をしていた――)
(リーシャか――よりにもよって、彼女なのか――!!!)
「おや、演技終わっちゃいました。んじゃあここいらで感想を……」
「……ひゃあっ!?」
立ち上がろうとしていたノーラは、咄嗟に立ち上がったカルに押されてしまう。
友人達の声も聞き届けず、彼は出入り口まで走っていく――
「んひゃ~……背もたれにぶつけましたよ! どういう了見なんですか!」
「カル! なあカル!! お前何処行くんだ――!?」
「……」
劇場の構造は記憶している。幼少期に訪れた記憶と、ヴェローナと共にやってきた記憶。二つの異なる時間の記憶が、自分の足を確実に進めていく。
急がなければ、早くしなければ。さもないと彼女の身に一体何が降りかかるか――
「……っ!!」
「おや……これはこれは、カルディアス殿下ではないですか」
誰もいない、扉だけが黙して並ぶ廊下の丁度中央。
ある一枚の大扉を前にして、クリングゾルとカルは対峙する――
「……何をしに行くつもりだ」
「それを咎められるのは貴方の方では?」
「リーシャに……会いに来ただけだ。演技が素晴らしかったと褒めるつもりで」
「それはそれは、とても気が早いようで。ですがその割には随分と落ち着いておられますね?」
「感情を顔に出すのは得意じゃない……父によく似てしまってな」
「おっと、貴方はそうでした。失礼失礼……そういうことでしたら、貴方より私の方が優先権がありますね」
「……悪いがその提案には乗れない」
「貴方の用事は非常に個人的だ。対して私の用事はとても重大なこと……どう考えてもこちらが優位に立っている」
「ならば用事の内容を教えてもらおうか。それができない限りは、俺は貴様の前に立ちはだかる」
「断りますよ。その内容は貴方のような個人には到底理解できないもので」
「それは言ってみないとわからないだろう? 今すぐに吐け」
「断ると言っているでしょう」
「……」
「……」
煮え切らない押し問答。互いに退くつもりはないと、その意地だけは伝わってくる。
何とか糸口を見つけ出そうと、視覚に聴覚を研ぎ澄まさせる――
(……!)
クリングゾルが右手に何かを持っていた。
その何かが、黒く残酷に輝いたのを見逃がさない。
眠っていた記憶が呼び起こされる――
(……あれは!!)
(忘れもするもんか、ヴェローナはあれに飲み込まれて――!!)
氷で刃を作り出し、
それを手に右手に向かって斬り込む。
相手に認識させる暇も与えぬ瞬刻の出来事――
「……何のおつもりで、殿下?」
「こちらの台詞だ――!!! 貴様、リーシャを、この劇場を黒に染めようとしていたな!!!」
ふぅと一息ついた彼は、バレてしまったかとでも言うように、
右手を上げてそれをまじまじと掲げる。
「それを叩きつけると『くろいあめ』が降るんだ――知っているぞ、何もかも!!!」
「何もかもだと? この兵器に仕込まれた百五十六の術式、それを全て暗唱できるのか?」
「全部同一の内容が書かれている!!! 全てを黒に染め上げろ、生ある者を死に導け――!!!」
激昂が散漫を生み、散漫は隙を導く。
直ぐ真横にあった扉が、ゆっくりと開かれるのにすら気付かない、気付けない。
「なっ……」
「……そうも真正面から飛び込んでこられては」
「こちらに攻撃してほしいと、誘っているような物だ――」
魔力で極限に強化された、クリングゾルの手刀が撃ち込まれる。
直前にカルの氷刃を魔術で弾き返し、その後の出来事。
「……確かに貴方は感情を出すのが下手ではあるが」
「その分表に出した時には、わかりやすく行動してくれる」
力も意識も失い、完全に気絶したカルの身体を、
片腕で安々持ち上げるクリングゾル――
彼女は目撃していた、してしまった。
今何が起こったのか、その一部始終を。
「……おや! これは、これは!」
「随分と都合がいい――その表情から察するに、見ていたんだろう、リーシャ!!!」
恐るべき彼の問いに、彼女は震え上がって何も答えない、答えられない。
この後告白しようと思っていた相手が、よりにもよって、こんな――
「ならば早速取引だ。リーシャ、カルディアスの命が惜しければビフレストの島に来い! お前は選ばれたんだ、お前はあの島に行く理由がある!!」
「だがあそこは一面の吹雪と雪原が覆う、脆弱な人間は生きられない地だ。故に決心が定まったら聖教会の者に声を掛けるといい。私の名を出せば、全員が屈服して従うぞ!」
「決心と言っても結局、お前に与えられた選択肢は一つだけ――聖教会に従い、聖教会の道具となりてこいつを解放することだ!!! ククク……ハハハハハハハハ!!!」
勝利を確信した高笑いを残して、彼は魔術でその場を去ってしまう。
痕跡すらも残れない高度な転送魔法。行先を追うことすら難しい。
やるべきことはわかっている、だが身体が動かない。心の表面に広がっていく薄氷を、まだ現実として受け入れられない。
膝から崩れ落ちてしまって、立ち上がることすらできない――
「いや~みんな素晴らしい演技だったね!」
「リーシャちゃんもすごかったけど、ミーナさんも中々やってたよね~」
「流石雪華楽舞団にお母さんが所属しているだけあるよね……わっとと」
「大丈夫カタリナ? やっぱり差し入れ買いすぎたかな?」
「いくら労う為とは言え、流石に限度ってものがあるよね。この後曲芸体操部で打ち上げするだろうし……」
「これぐらい必要って言ったのはどこのぎぃちゃんだったかなぁ~!?」
「何も聞こえないぞぉー!!」
廊下の奥から聞こえ、段々と近付いてくるその声が、
まるで一筋の光明のように思えた。
「とうちゃーく! 確かここだったよね、リーシャの控室!」
「というかそもそもまだ部屋に……え」
「……リーシャ? え、リーシャ……?」
「……泣いてる? ねえ泣いてるの? 何があったの……?」
持ってきた差し入れのお菓子を、ギネヴィアとカタリナに預け、
自分に駆け寄ってきたエリスを、
抱き締めた後に薄氷が砕け散る。
「う……うあああああああああああ……!!!」
「エリスっ……!!! 助けて、助けて、助けて……!!!」
「私、どうすればいいの、一体何をすればいいの……!!!」
友人達が困惑するのも気にも留めず、心のままに泣き叫ぶ――
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