「……わんわん」
「……」
「わんわおん!」
「……ん……」
「わっふーん!!」
「何だうるさいぞ……って」
「じゃーん。カヴァスではなくわたしでしたーっ」
翌日の月曜日。朝日が差し込み出した頃、エリスはうきうきでアーサーを起こす。
「えへへ……」
「……どうした。朝から機嫌がいいようだが」
「そ、そうかなっ?」
「オレにはそう見えるが」
「そっかあ……」
エリスは手を背中で組み、顔を少し下に向けて身体を左右に揺らしている。
「……」
「……」
「……用件は」
「ひゃいっ!」
「……何なんだ。本当に大丈夫か」
「大丈夫だよっ! ええと、うん、ここじゃあれだし、リビングに来て!」
「着替えてからでもいいか」
「いいよ! じゃ!」
そう言ってエリスはそそくさと部屋を出ていく。入れ替わりにカヴァスが入ってきた。
「ワンワン……」
「……またその気持ち悪い声か。やめろ」
「フゥワーン!!」
言われた通りに着替えてリビングに来たが、机には何も用意されていない。
奥のソファーに、エリスがにこにこ笑顔で座っているだけだった。
「……それで何だ?」
「うー……」
「唸られても理解できん」
「あー……」
「……何もないなら朝食の準備を行うが」
「わ、待って待って! はいこれ!」
エリスは立ち上がり、その勢いで後ろに隠していた小箱を渡す。白とピンクのチェック柄で、赤いリボンで結ばれていた。
「これは……」
「さあ何でしょうねーっ。もうそれはあなたの物なんだから、好きにしていいんだよ?」
「……」
アーサーは躊躇することなく、リボンをほどいて箱を開ける。
そこに入っていたのは、直径五センチのガトーショコラ。しっとりと焼き上がり、粉糖が引き立たせるように降りかかっている。
「……ああ。チョコレートってやつか」
「ガトーショコラっていうんだよ。チョコケーキに近い感じで、食べ応えばっちり。昨日皆で作ったんだ~」
「……そうか」
アーサーはソファーに座り、そしてガトーショコラを箱から取り出す。
「え、もう食べちゃうんだ?」
「腹に入れば同じだろう」
「あー……そうだねー……」
エリスはもじもじしながら、アーサーが食べる様子をじっと見つめる。
「……」
その表情は、最初こそ変わらなかったが。
「……うん」
段々と口角が上がり、噛み締める速さも落ちていく。
「……ごちそうさま」
そして食べ終えると、エリスの方に向いて。
「……昨日は訳があってな。有名店の菓子をしこたま食べてきたんだ」
「え……そうだったんだ」
「ああ。そして、このガトーショコラは……」
「そこで食べたどれよりも美味しいよ」
はにかみながら言う彼の口元には、ガトーショコラの欠片が僅かについていた。
「あ……」
「ありがとう……」
エリスは顔を赤らめ、誰からも見えないように下に向ける。
「ん……どうした。顔が赤いぞ、はっきりとわかる」
「あ、えっと……大したことはないよ!?」
「……そうか?」
「そうそう! さっ、あげる物あげたし朝ご飯の準備を……」
「ならオレがやろう。こんな素晴らしい物を作ってくれたんだから、平等に行かないとな」
「……ぷしゅう」
「っ!? エリス、大丈夫か!?」
「ワンワン……」
こちらは騎士寮。時刻は午前九時、男性棟の入り口付近。
「うう~……キンチョーするよぉ……」
「やっぱワイだけじゃ心細いか? レーラ呼んでくるか? おん?」
「いい、今年は頑張るって決めたの……!」
壁に隠れながら、ウェンディは何度も首を出して様子を窺う。目的の相手の来る気配はしない。
「えっと……落ち着けうち。皆で頑張って作ったこのチョコレートを絶対に渡すんだ。平常心、平常心で偶然通りかかったのを装って……」
「おう来たで行ってきぃ」
「うわー!?」
ロイに押し出され、ウェンディはよろめきながら門の前に躍り出る。
そしてカイルと向き合う。偶然にも他に通りかかる騎士はいない。
「……おや、ウェンディじゃないか」
「ここは男子寮だから女が来る所じゃないとイズヤは推測するぜ」
「あ、あああ……!!」
逃げたい気持ちを押さえて、震える足を必死に留める。
「きょ、今日はいい天気だね~……!」
「そうだな」
「こんなにいい天気だと、気分もよくなるね~……!」
「まあそれは言えてるな」
「う、うん……!」
加えてとりとめのない応答をいくらか繰り返し、そして、
「あ、あのね……」
「何だ?」
(よし……)
「ぃぃ今、ここに来たのはね……!」
「ふむ」
(ええぞ……!)
「……これを……!「おはようカイル! 今日も日光が気持ちいいわね!」
(……あっ)
ウェンディが後ろを振り向くと、そこにいたのはブラックベリーの髪色で、ベリーショートの髪先をくるんと丸めた、八重歯が特徴的な女性。
「レベッカか。おはよう」
「お前もどうして男子寮に来ているんだとイズヤは詰問するぜ」
「ええ、実は貴方に渡したい物がありまして……」
停止した状態のウェンディを通り過ぎ、レベッカはカイルに小袋を渡す。
「私からの感謝の気持ちよ。ほら、この間包帯や薬草を片付けるのを手伝ってくれたでしょう?」
「ああ、そんなこともあったな。だがあれは先輩から任された仕事をやっていただけだ」
「理由付けがどうであれ、やってもらったことには変わりないわよ」
そう言いながら、次第に彼女の視線はウェンディに向けられる。
「と、こ、ろ、で~……彼女もお菓子、渡したいみたいよぉ~……?」
「あ、ああ……」
「そうだったのか。ならば受け取ろう」
「うん……」
一瞬迷ったが、ウェンディは観念したように隠していた小箱を渡す。白とアイボリーの市松模様で、ハートのシールで封がされていた。
「二人共ありがとうな。俺はこの後出勤だから、行くよ」
「うんっ、気を付けてねカイル!」
「……気を付けてね~……」
ウェンディとレベッカは手を振り、カイルの背中を見送った。
「……」
「……ぷくく」
「……う~……!」
「あーっはっは! 今回も私の勝ちねウェンディ!」
唾を撒き散らし、目を半分白く剥きながらレベッカは笑う。その様子は別人にように思えてくる。そこにロイが地面を踏み鳴らしながら迫ってくる。
「あんさんいい所で気おってからに!!」
「おんやあ、うちらは何も悪うないで? 折角前に出れたのに、なあんも言えないそちらに責があるんでないぃ?」
「げえ、チェスカ!!」
レベッカの足元から、妖艶な口調で話す、ラベンダー色のアルミラージが出てきた。そして二人に挑発的な視線を向ける。
「くにゅう……次は負けない! 他の子には負けたとしても、レベッカだけには負けない!!!」
「その言葉ァ、そっくりそのままあなたにシューーート!! ずぇったいに負けないんだから!!」
「ところでロイ、あんさんこの間貸した銅貨はいつになったら返してくれはりますの?」
「う゛っ!? そんなんあ゛っだがなあ!?」
「……覚えておきんしゃい……?」
「……」
今日も今日とで校舎に足を運ぶ。
「え……今の人見た? チョーイケメンじゃない?」
時の流れは記憶を攫っていく。今の学園で、自分のことを知っている人物は殆どいない。
「何あの人……制服、ボロボロじゃん……」
だが今はその方が都合がいい。
――昔を思い出しても、何も良いことはないのだから。
そうして辿り着いた、いつもの場所。
「……おや」
定位置に移動し、柵に寄りかかって体育館を見下ろす。
ところが今日は珍しく、いつも気にかけているあの子がいない。
「先輩」
風邪でもひいたのかと思った矢先、
「――カル先輩!」
背後からあの子の声が聞こえて来た。
「……」
「先輩……」
「……何故俺の名前を」
「……聞いたんです。その、料理部の……」
「……そうか。ああ、それ以上はいい」
カルはリーシャの手前に移動し、彼女の瞳を見据える。
「……」
「どうした。ここまで来るということは、俺に用があるんじゃないのか」
「……! は、はい! あの、これ貰ってください!」
リーシャは手に持っていた小箱を渡す。
「……私、先輩には感謝してるんです。私がまともに練習できるの、先輩のおかげだから……これは、その気持ちです!」
「えっと……以上です! 私はこれから練習に行きます。だから、厚かましいかもしれませんけど……見ていてください!」
リーシャは慌ただしく頭を下げる。
そして同様に、慌ただしく吹き抜けを後にしていった。
「……」
彼女の姿を見送ってから、手元にある小箱を見つめる。
――ねえねえ、一体何を貰ったの?
それははっきりとした水色の水玉模様で、
――わあ、おしゃれで素敵な小箱!
銀色のリボンが結ばれていた。
――まるであなたみたいな色合いだね!
「……そうか」
「今日は……愛と感謝の祭日か」
左手に小箱を持ち換え、身体を正面に向けたまま、右腕を真っ直ぐ伸ばす。
『白いおめかし大木さん、今日は逢引のご予定ね』
『雪から挨拶兎さん、照れて隠れて穴籠り』
『赤く小さな野苺さん、想いし人はすぐそこよ』
『ああ、雪と煌めきにこやかな、光輝なるイングレンスの森よ。この世の恋する生命のために、私は言葉を紡ぎましょう――』
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