暦が変わって十月。そろそろ本格的に学園祭の準備が始まる時期がやってきた。
月日はあっという間に過ぎていく。それは人の心に、焦りという感情を芽生えさせるのだ。
「うう……」
「ああああ……」
ホームルームが終わった四年二組の教室。
クラスメイトが続々とそれぞれの活動に向かう中、ルシュドは自分の席で頭を抱え、呻いていた。
「……」
ふと自分の手を見る。ここ最近は訓練ばかりしていたから豆だらけだ。
しかし――それだけ腕を動かしても、どこかこれじゃないという、違和感が漂い続けている。
「おれ……どうすれば」
一人残って悩みを抱えている様子の生徒がいたら、当然担任としては気になるわけで。
「ルシュド君、どうされましたかぁ」
「あ……先生」
ミーガンが眼鏡を押し上げながら顔を覗き込む。
「……」
「何か思うことがあったら話してみなさぁい。友人関係についてならそれとなく注意しておきますよぉ」
「い、いえ、違います。友達、大丈夫……」
「では成績についてでしょうかぁ? それともそれ以外?」
「……」
話してみるのもありかもしれないと思い――
竜賢者が自分に言ったことをそれなりにぼやかして伝える。
「ふむ……待つことも肝要だと」
「はい。でもおれ、待つ、できない、やっぱり……」
「それで訓練を続けていたが、何となく伸びた気がしないと」
「……はい」
「……」
ミーガンは腕を組んで、考え込んだ後――
ルシュドの顔を見て提案する。
「それならちょっと私の趣味に付き合ってみませんかぁ」
「……趣味?」
「何をしているかは当日までの秘密ということでぇ。今メモを渡しますのでぇ、次の土曜日十時にそちらにいらしてくださぁい」
そして当日。ルシュドはジャバウォックと共に外出した。
「「……」」
「……何、ある、思う?」
「さあ……?」
指定された場所は第一階層の一角。視界の先にはぽっかりと洞窟が開いている。
そこに道具を抱えて向かっていく人々。洞窟の中はぼんやりと明かりがあるらしいが、今いる位置からは全てを窺い知ることはできない。
「ルシュドくぅん、おはようございますぅ」
「ん……あのとんがり頭が、例の?」
「ちょっと待って、あたし以外に初心者いるの?」
そんな声がしたので振り向く。
誘ってきた張本人ミーガン、彼に加えて女性が二人。
「初めまして、いつも兄が世話になっています。ミーガン・モルスの妹ティナ・モルスです」
「ティナの友人兼同僚のカベルネです……職業は宮廷魔術師。偶には友人の趣味に付き合ってやろうと思って来ました」
「ル、ルシュド。ジャバウォックです……」
おずおずと頭を下げるルシュド。ジャバウォックも釣られて頭を下げる。
「では早速中に入っていきましょうかぁ」
「あの、何、ありますか、この先?」
「まっ、一種の娯楽施設ですよぉ」
洞窟を通る--とは言っても、それ程じとじとした不気味な物ではなく、尚且つ閉鎖感のある呼吸に詰まるような物でもない。そもそも洞窟と言うよりは通用口と言った方が適切かもしれない。
出口の方から風が吹き込む。それは僅かばかりに、潮の匂いを運んできてくれた。
「はいこちらぁ、大人三人未成年一人。銀貨六枚になりますねぇ」
「釣銭は青銅貨をちょいちょいと……珍しいなあミーガンさん。今日は子供も引き連れてるなんて」
「私が受け持ってる生徒なんですよぉ」
「担任特権で趣味の布教か~? まあいいや、どうぞごゆっくり」
出口の近くにあった受付、そこにいた親父と会計を済ませる。彼は箱に銀貨を入れた後、ゆっくりと葉巻を吹かした。
「……」
「あはは、珍しがってる。グレイスウィルでは貴重な海だよ!」
そこは人工的に造られた岩場で、集った人々は海面に何かを垂らしている。
時々それに引っ張られたり、或いはそれを引き上げたりする。しなる竿の先を魚が喰らい付いていた。
「……釣り?」
「そう、ここは全グレイスウィル在住釣り人憩いの地、釣堀。他にも幾つかに多様な釣堀がありますが、最も大きく且つ全人向けなのがここなんだ」
「他にも上級者用とか、特定の魚が採りやすい釣堀とかあるんですけどもぉ、そっちだと命懸けなきゃなりませんからねぇ」
そんな話をしながら四人は手頃な所に席を取る。ミーガンが背負っていたリュックを降ろした。
「どすんって言ったぞおい」
「亜空間理論が応用されてるんだ。見た目よりもがっつり入ってるぞ」
「これ作るのに二年はかかってしまいましたねぇ」
「自作なの!?」
ミーガンが先ず取り出したのは折り畳み式の椅子。続いて箱である。
「うわっ! みみず!」
「釣り用の生餌ですねぇ。私はルアーよりもこっちの方が好みなんですよぉ」
「よっと。でもルアーを持ってきてないってわけじゃないから、好きなの使ってね」
ティナも同様にリュックから、ルアーの入った箱と釣竿を取り出す。
「ほらカベルネ、貴女もやる」
「ええ……?」
「貴女は釣りについてある程度の知識はあるでしょうが。荷物も準備してきたんだし」
「はぁい……」
渋々釣竿の準備をするカベルネ。何も準備していないルシュドは唖然として準備の光景を見つめていた。
「そうですねえ……ルシュド君はこれ着ててくださぁい」
「ベスト? もこもこしてる」
「服が濡れない為の工夫ですねえ。私やティナはそういった道具を準備してますがぁ、お二人はそうではないのでぇ」
「魔法でズルしちゃ駄目なんですか」
「そんなの使ったら魚が逃げてしまう」
「ええ……?」
そんなこんなで各自準備完了。
椅子を動かし海面に近付け、釣竿を垂らす。
「ああ、こっから根気勝負か……」
「今日は暖かい方だし、かなりマシな方だよ」
「ちょっと待て、ティナは悪天候でも釣りすんの……?」
「悪天候じゃないと浮上しない魚とかいるからねえ。そういうの釣りたいなあって時には頑張るよ」
「そん時も魔法無しで……?」
「魔法は使わないけど、魔法具には頼る。着るとあったかくなるやつとか釣り専用断風結界とか」
「……」
底知れぬ釣りの世界に白目を剥きながら、糸を垂らすカベルネ。
「今何分経った?」
「訊くの早すぎない?」
「五分ですねえ」
「は……」
「まだまだ甘い方だよ分単位なら。時間単位で耐えるようにしないと」
「何であたしが釣りを続けていくような言い方になってんの……」
早くも音を上げた宮廷魔術師はさておき。
ルシュドも同様に借りた釣竿で釣り糸を垂らし、その先を見守る。
「……こない」
「いえいえ、寧ろ釣り糸を垂らして数分でかかることの方が珍しいですよぉ。まあ……今この近くには魚影は見当たりませんねえ。しかし向こうの方にはいるので、近付いてくるのを待つしかありませんねぇ」
「待つ……」
「そうですよルシュド君。待つんです」
「ですが……ただ待つのではないです」
眼鏡の奥の瞳で、じっと海面の下に沈む、魚影と竿先の動向を見据える。
「相手が食い付いてきた瞬間、直ぐに反撃できるように。僅かな竿の揺らぎも見逃さないように。戦いは何時始まるのか神ですらも存じ得ない。故に何時始まってもいいように、集中して待つのです」
「闇雲に突撃するのではなく、ここぞと思った瞬間に一撃で決める。案外そちらの方が最善の結果になることは往々にしてあります」
「それは釣り以外にも、人生における様々な出来事において共通の現象だと思うのですよ……」
その瞬間、ミーガンの竿が揺れる。
「っと」
「うわっ早いっ」
「私達はかれこれ数年はやってるからね。お喋りしながらでも余裕なんだよ」
ティナは瞬時に竿を引っ張り、リールを巻く。
その先には細身であるが、しかし脂が乗ってよく肥えた魚が一匹。
「わあ……」
「アジですねえ。無属性ですねえ」
「うわ、めっちゃビチビチいってる!」
「そりゃあ魚だからな」
ティナは水の入った容器を持ってきて、竿先でビチビチ跳ねるアジを外し、そこに入れる。
「今日は兄さんに先越されちゃったな」
「幸先いいですねえ。先月は負けてばかりでしたからぁ」
「悔しいなあ。でもま、大物釣るのは私だから」
「ふふ、負けませんよぉ」
「バチバチ言ってんな~……」
やり取りを見届けた後、ルシュドは改めて竿の近くに戻る。
飛ばされないように固定していた竿を手に取り、再び海と向き合う。
「ただ待つんじゃない……」
「集中して、いつ戦いが始まってもいいように」
「来たるべき時に、全力で行けるように……」
ぴちゃん
「……!」
「来たな相棒!」
手に握った竿が揺れる。
海面に引き込まれようとするそれを、咄嗟に反応して引っ張っていく。
「この揺れは! 大物来たんじゃない!?」
「おい、カービィのも揺れてる」
「うえっ!?」
「手を放して海を見ているからだ」
カベルネが慌てて引き上げる隣で、ルシュドの戦いは続く。
数秒或いは数分後。戦いの勝者は――
「……おお!」
「これはお見事だ!」
「すっげえ……」
釣り人ルシュドに軍配が上がった。
「はぁ……はぁ!」
「いやはや、お疲れ様でしたぁ。これだけの大物ですもの、さぞ疲れたでしょう」
白い錠剤を渡すミーガン。どうやら栄養剤らしい。ティナは大慌てで、先程アジを入れた物より大きい容器を持ってきて、その魚を入れる。
「ルシュド君こっちに来なよ。じっくり見なさい、自分の戦果を」
「う……おお……」
自分の両手でも抱え切れるか怪しい程の長さに、これまたふっくらとした巨体。
こんな逞しい生命体を自分の力で釣り上げたのである。
「スズキですねえ。これ身の詰まった白身魚で美味しいんですよねえ」
「でもルシュド君が釣った獲物だからな。どうするかは君に任せるよ」
「食べる以外……?」
「リリースして海に放つんだ。或いは持って帰って飼ってもいいぞ?」
「そ、それは無理。えーと……食べたいです」
「はいはい。ならばムニエルとポワレ、どちらにしましょうか……」
「カービィ、飯の時間だぞ」
「ええっマジっ!?」
獲物を逃して意気消沈だったカベルネが、しゅばばっとやってくる。
「向こうにですねぇ、台所が設置してあるんですよぉ。新鮮な魚を調理して食べられるんですぅ」
「……ぐぅ」
「あはは、お腹鳴ったね。兄さんは料理の腕前もそれなりにあるんだ。期待しててよ」
「ごちになりまー! 帰ったら弟に自慢してやろっと!」
それから時間も忘れてしまう程、ルシュドは釣りに没頭することになる。
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