身体の節々が疼く。
傷口に万年雪が染み込み、冷酷な痛みを与えてくる。
それでも自分は動き続けないといけない。
生存本能は生まれながらに刻み付けられた宿命だ。
きっと自分に待ち受ける未来は――かの御方に頭を切り落とされて、一生浮かばれぬまま。
悪霊として恐れられる結末だ。
仕えている主人の、最期を看てやれなかった。
従者として失格だ――元々、そんな資格があったのかどうかもわからないが。
身体が動かなくなった。
手も足も、自分の命令に応えようとしない。
果てには、自分の唯一無二の友ですらも、応えなかった。
暴徒と戦って消滅したか、それとも――
「――ほら。君の主君は、こんな所に倒れていたぞ」
男の声が聞こえた。それは余裕のある、飄々とした声。今の自分とは大違いだ。
戦場において自分の知らない人間を目撃したら、刃を向けて交渉にあたる。それが戦闘の鉄則、教えられてきたこと。
しかし今はそれができない。できなかったら訪れるのは死だ。
そうか、今聞こえた声は、かの御方の――
「……は気が付いたことを確認したぜ」
友のその一言で飛び起きた。即座に、飛び起きられたことに対して違和感を覚えた。
自分は死んでないし友も消滅していない――救出されたのだ。
「気が付いたようだな?」
あの、極寒の境を彷徨っていた時に聞こえたのと、同じ声がした。
友の隣に彼がいた――白銀の鎧を着た、そこそこ年がいっている男。
鎧の肩に赤薔薇を模した紋章が刻まれていた。それに質問する前に、男が口を開く。
「君の素性については、君のナイトメアが話してくれたよ。キャルヴン家については……本当に済まない」
「レインズグラス家だけでは聖教会を抑え込めず、結局我々も動員されることになったのだが……もう到着した頃には、殆ど終わっていたな」
「内政不干渉の条約があるとはいえ、助けられたであろう命を助けられなかったのは、本当に辛い――」
彼の表情からは、それが心の底からの感情であることが窺えた。
「それと、少し様子がおかしかったから、君のナイトメアについてちょっと魔力構造を見させてもらったんだ――構造が不自然に変わって、異常が起こっていたよ」
――突然降ってきた黒い雫を少し浴び、更に一部の兵士が用いていた、桃色と青色の煙も吸ったことを伝える。
「魔術大麻絡みか……タンザナイアから何も変わってないじゃないか、はっ」
「……独り言だ。ともかく君のナイトメアは、非道に走った兵器の所為で、一生治らない傷を負っている。具体的には言語機能がおかしくなってるな。不自然というか業務的というか、語順がおかしいんだな、うん」
けれども意思疎通ができないわけではない。口調が変わっただけでは、友を失ったことにはならないのだ。ただここにいてくれるだけでいい――
「俺もそう思うよ……本当に君が『人望無し』にならずに済んでよかった。カルディアス殿下なんて、目も当てられなかったからな……」
カルディアス? 面識はないが知識としてはある。レインズグラス家の長子、イズエルト王国第一王子に一体何があったのだ。
「ナイトメアを失ってしまったようでな。城の自室に引き篭って泣いてばかりだ……魔法学園での生活もまだあると言うのに、これから先どうなることやら……」
――自分の主人だけが災難ばかりだと思っていたが、どうやら違ったらしい。
『人望なし』とは、ナイトメアを失った者に付き纏う蔑称。仕えていた騎士がいなくなる、即ち見切りをつけられたと解釈されて生まれた言葉だ。本当は彼のように、やむを得ない理由があって別れてしまったのだと言うのに。
「ところで君は、これからどうするつもりだ? 自分の実家に戻るのか?」
それはできない。
主人の側におれず、あまつさえ死に損なった。今こうして生きてはいるけども、使命を果たせなかった時点で実質的に死んだようなものだ。
「そうかそうか……んー……」
「グダグダシテイナイデサッサト言ッタラドウダ」
扉を開けて入ってきたのは、全身鎧の人らしき者。友と雰囲気が似ていたので、友と同じ存在――一般的には、ナイトメアと呼ばれる者なのだろう。
「鬼面ノ一族。話ニハ聞イテイルゾ。リーズンス島ノ奥地ニ住マイ、非常ニ高イ戦闘能力ヲ保持シテイルソウダナ」
「……グレイスウィル騎士団は君を迎え入れたいと思っている。優秀な若者をみすみす死なせるのは惜しい……どうだ?」
自分のこれまでの人生の中で、久々に迷いが生じた。
死ぬべきだと思っていた所に突然提示された新たなる人生――生存本能は生まれながらに刻み付けられた宿命だ。
これからも生きて、別の人生を歩んでいくのか?
「……は誘いに乗るべきだと思うぜ」
「……は自分達の力で多くの人の助けになるべき。この戦いで救えなかった人の分まで……と思うぜ」
「……は加えてお前を死なせることは、友である以上できないということを伝えておくぜ」
友の言葉が自分の首を縦に下げさせてくれた。
「……ありがとう。このタイミングで言っちゃうけど、実は俺がグレイスウィル騎士団の団長なんだ」
「我ガ主君ナガラ実ニ威厳ガナイト思ウ。ソンナコトハサテオキ、団長ノ推薦トナレバ試験ヲ受ケナクテモスンナリト入団ハデキル」
それは止めてほしい、と口を開く。
彼に仕えていた従者としての自分は死んだ。これからは、何者でもない自分として生きていく。
心の整理をしっかりと行う為にも、入団試験は受けさせてほしいと、そう伝えた。
「そうか……わかった。君程の実力者ともなると、こちらが手ほどきしなくても合格はできるだろう……」
「逆ニ君ト組ンダ者ハ合格確定カモ知レンナ」
「その相手が生涯の友になったりしてな……何にせよ、これから君が向かう世界はそういう所だ」
常に死と隣り合わせでは無い、誇り高き騎士としての日常が、この日から始まった。
それは今も続いている――
女の癖にとか、女だからとか、そういうことを言われるのが嫌いだった。
自分にはレインズグラスの一族、偉大なる初代女王イズライル、氷結のイソルデの血が流れている。先達だって女だ、自分を侮辱するのは彼女達を侮辱しているのと同義だ。
だから訓練に励んでいた。来る日も来る日も相棒を握り、素振りから始まり刺突訓練、様々な場面を想定した訓練を何度も続ける。王国騎士よりも厳しい内容――敢えてそのようにして、上に立つ者の責務を果たそうとしていた。
でも結局自分は弱かった。何もできなかった。
リーズンス島の現場に行こうとしても、聖教会の者に阻まれて城の外にも出れない日々。痺れを切らして城を抜け出し、到着した先で見たのは弟の姿。
無残な姿をしていた。焼け爛れて、髪の色も変わって、鎧も崩れていた。それ以上に残酷に感じたのは、そう変わっていたのが半分だけで、もう半分は元の形が残っていたことだ。
泣いていた。あれだけ表情を出すことが少ない弟が、大声を上げて号泣していた。その手には黒いチュチュが握られていて――記憶にあるそれを見て、全てを察した。
遅かった。あれだけ訓練を積んでいても、心のどこかでは聖教会に対して恐怖し、行動できなかった。連中が使う残虐を体現したあの兵器、『くろいあめ』に恐れを為していたのだ。
守れなかった。弟も、弟のナイトメアも。そもそも彼を一人でリーズンス島に行かせてしまったことが、全ての過ちだった。あの島は聖教会が跋扈していて、好き放題できる環境だ。きっと連中は彼を脅威だと感じて、グレイスウィルもレインズグラスも手が届かない所で抹殺しようとしたのだろう。
父もそうして死んだ。弟も死なずにこそ済んだが、一生癒えない傷を負った。そして、母もそうなってしまう所だったのだ。
わかっているんだ。このまま連中の横暴を許せばまた人が死ぬ。また遅くなって、また守れなくて。自分の弱さを嘆く日々が始まる。
諸国漫遊、聞こえはいい。世界を巡って訓練を積んできた。でもそれは、自分の弱さから逃げる行為でもあったのだ。結局こうして直面して、何も変わってないことに絶望していく。
――そんなものは存在しないって、常識として確信している。
けれども、許されるのであれば、是が非でも願いたい。願いたい程に自分は無力だ。
嗚呼どうか、願いを叶えてくれ――イズエルトの民も、大切な家族も。私の全てを聖教会の魔の手から護ってくれ、大いなる聖杯よ――
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