中悪魔アスセナエル、花と山羊獣人が混じったような姿をしたオスの悪魔……。
彼は大悪魔でも小悪魔でもない、中悪魔と呼ばれる存在だ。
大悪魔ほど年老いておらず小悪魔ほど若くもない、大悪魔ほど強くはないが小悪魔ほど弱いわけでもない。
俗に言う中間管理職で、人間換算年齢がだいたい30代半ばという中年……。
ついでに言うのなら、所得面でも魔界の中流階級。
それ故に、中悪魔と呼ばれているのだ。
「アスセナエル! この間の任務の報告は!?」
「はい、今すぐに!」
「またどやされてるよアスセナエル様……」
毎日上司に怒鳴られ、部下には敬意を抱かれないむなしい日々……。
そんな日々に心をすり減らしては、魔力溶液で栄養補給をし頑張る姿はまさしく社会の歯車だ。
そんな彼の仕事は何かというと、魔王軍の幹部……と言っても木っ端幹部の一人というこれまた中堅の役どころ。
何もかもが真ん中に位置している魔界のヒエラルキーにおけるど真ん中、センターポジションだ。
(……魔王様は、新たな宗教により神々から悪魔に貶められた我ら古き神の復権を目指すなんて言ってるけど……そんなの、信仰を得るべき人間を傷つけちゃ元も子もないよなあ……魔王様は彼らを滅ぼして新たな人類でも作るのだろうか、それではあまりにも迂遠だ……それまで保つのかなあ、オレ達を構成するイマジネーションは)
神や悪魔は概念生物と呼ばれており、観測者である有機生物が抱くイメージを基にしてその肉体、存在を形作る。
つまり人の信仰により神魔の在り方は変わるのだ、貶められれば天界は魔界に、神は悪魔になる……逆もまた然りということ。
その理屈を理解しているが故に、人をいたずらに恐れさせる主君の在り方に疑問を浮かべているが……それを言い出すこともできない。
上司に逆らえない中間管理職の悲哀というものを背中に湛えながら、彼は今日も人間と戦い……そして仕事が終われば帰宅する。
悪魔や神とて、彼らを構成するイマジネーションの源流……他の生命体が生きる場所である物質世界に交配の概念が有る限り交配も出産もするのだが、彼にその相手は居ない。
絶賛独身、そして童貞……しかしそれに関しては彼は苦に思っていなかった。
何故なら……。
「くあああぁぁぁっ、てぇてぇ……このカップリング、てぇてぇよお……!」
物質世界から持ってきた小説を読みふけり、アスセナエルは奇声を上げる。
そう……彼を構成する概念、それは芸術と女性同士の同性愛を愛でること……。
アスセナエルは、百合と呼ばれるそのジャンルを見守るのが大好きな悪魔なのだ!
こればかりは中好きではなく大好きだ、そう胸を張って言える……。
イエスリリー・ノーサンド、百合こそ真の芸術だ……を地で行く悪魔。
それこそがアスセナエルなのだ。
「はあ……良いなあ、こういう世界にオレも生まれたかった……」
さて、そんなアスセナエルが最近はまっている百合小説のジャンル、それは異世界ものの百合小説。
魔術ではなく、科学という摩訶不思議な文明が発展したことで人類が神威を恐れずとも良くなり、神秘が放棄された世界を舞台にしたものだ。
そんな世界は実在しないだろうということは、世界の摂理に近い存在ゆえ重々承知なのだが……。
しかし、神・魔・人の3すくみとなる争いもない世界……思うがままに百合を見守れる世界……そんな世界を見れば、一度くらいそこで暮らしてみたいと夢を見てしまう。
俗に言う、転生ものというジャンルの小説……そんなシチュエーションを求めているのだ。
しかし、待てど暮らせど異界の扉は開かれず……。
フラストレーションばかりが日々溜まり続ける。
「よし……こういう時は、ネットだ!」
そんな気持ちの発散方法の一つ、それが蜘蛛神ネットワークだ。
とある蜘蛛の悪魔が神だった時代に仕事で世界中に張り巡らせた巣……それに精神を乗せることで悪魔達は離れていても会話ができる。
それを利用し、同好の士が巣の一つ所に集まって会合を行うのだ。
彼らはこれをネットでのおしゃべり……ネットワークチャットと呼ぶ。
「どうも~、皆さん!」
「おっ、百合魔王ベリアードさん、こんばんは!」
ここでは自由な名前を使い、元の位階も関係なく語り合うことが礼儀となっている。
そうして日々の疲れを忘れて行う百合好き同士での会話はたまらないものだ。
彼らと話していると、自分では気付かない角度で見た百合観や新しい作品を知れる。
これはネットワークがなければそうそうできない経験だろう。
「そういえば、オススメの作品は見ました?」
「ええ! 良いですよねえ、あの怪獣に変身する少女とヒロインの恋愛……!」
「良いですよねえ、かつて置いていかれる悲しみを身に背負った少女が、やがて朽ち果てても共に在り続ける存在になるあの流れ……!」
こうやって話すのは、まさに時間を忘れる楽しさだ。
しかし、忘れていても時間は来るし、次の用事はある。
それは魔の世界でも人の世界でも神の世界でも同じ事。
一人また一人と席を離れる者が現れていく。
「おっと……そろそろ私も行きます」
「あ、貧乳王者さんはまた出撃ですか?」
「ええ、終わったらまた百合を楽しむとしますよ!」
最後の一人、大親友である貧乳王者が離席してしまった。
これでアスセナエルは一人きり……。
だが、動じることはない。
ネットの楽しみ方はこれだけではないのだ。
「よし、じゃあ仮想空間に移動するかな……」
ネットワークにおいては巣の中に魔術で作り出した仮想世界に意識を飛ばし、仮想体験を行うこともできる。
そして、そんな仮想世界においてアスセナエルがハマっているもの、それが百合オプジェクト作りだ。
芸術を愛でる悪魔という側面も持つ彼は、人間の少女が人形遊びの一環として人形のための家や家具を自作していたことに感銘を受けた。
そして自らも魔術によって精巧な女性型の仮想生命とその家具や拠点を作っているのだ、それも余裕さえ有れば毎日という頻度で……。
勿論、そこまで回せるほどの魔力が残っていることは魔王軍というブラック軍団に勤める彼にとってそうそう無い。
なのでまだ作れているのは拠点とそこに住む者達、彼らを簡単な思考で動かす個別ルーチンと生い立ちや趣味嗜好などの細かな設定くらいだが……。
それでも中々に上手くできているだろう。
「秘密結社リス・アムールのアジトはこれでほぼ完成だな……へへ、外観もしっかりできたし、次からはようやく外の世界を作れるぞ! これで理想のファンタジー世界を作るんだ!」
ガッツポーズをしながら、口づけをしあう女の子達を眺めるアスセナエル。
その肩がふと叩かれた……。
振り返ると、そこには首領である彼が最初に作り出した副官……という設定の少女、ローザがいる。
ローザ・ホーネット、蜂の怪人であり見た目は人のような背格好をした二足歩行の蜂……といったところ。
彼らは皆、外の世界では人に擬態するが、アジトの中や戦闘時には本来の姿に戻るという設定なのだ。
なので、アジトの中はどこを見ても人外の女の子ばかり……。
こういった女の子に百合をさせているのは、単純に悪魔として人間も好きだが同じ悪魔の方が捗るといった気持ちからである。
まあそんなフェチの話はさておき……。
「創造主様ベリアード様、時間です」
「ありがとうローザ、じゃあ行ってくるよ」
「はい、ご健闘を」
定時が来たら通知をするよう設定されている彼女は、こうして毎日時間を教えてくれる。
その声を聞きながら、アスセナエルは毎日出撃へ向かうのだ。
こうして百合好き悪魔同士で会話したり、仮想空間で百合を見たり作ったり、そんな時間を楽しむことこそが彼のライフワークの一つ……。
だったのだが……。
かつて神だった悪魔の長い長いライフワーク、これからも続くと思われた日々は……ある日呆気なく、唐突に終わりを告げた……。
神聖歴 8899年、運命の日。
勇者、魔界に降り立つ。
人間の勇者が3すくみの戦争を終わらせるべく、目下の敵である悪魔を討ち滅ぼしに来たのだ。
確かに、悪魔を討てば神を討つのは容易いだろう。
神は悪魔を滅ぼし、悪魔は人を滅ぼし、人は神を滅ぼす。
この3すくみが世界の摂理に組み込まれている限り、もしも奇跡という力技でこの摂理を覆せれば……後に待つのは、残った勢力の勝利だ。
故に人間は、まず悪魔を滅ぼしにかかった……その後神を討ち滅ぼすために。
「うおおおおぉぉぉぉっ!!! 魔王覚悟! ここで死のうとも、お前を討てば後に続く者が未来を作ってくれるはずだ!」
「くっ……!」
決死の覚悟の人海戦術、最後に男と女が一人ずつ残ればこちらの勝ちだと言わんばかりの戦術で人間の最後の切り札、勇者が放たれる。
予想外のタイミングでの突出には魔王すら対応しきれない、奇跡を願うその剣は今にも魔王に届かんとし……しかし、途中で止まった。
思わず目を閉じていた魔王は、震えながら目を開く……そこでは……。
「ぐはっ……!」
「な……! アスセナエル……!?」
「魔王様、ご無事……ですか……?」
咄嗟にかばいに入ったアスセナエルがいた。
この時ほど中悪魔で良かったと思った瞬間はないだろう。
小悪魔のように数減らしに雑兵が突っ込める程弱くなく、大悪魔のように数人がかりで抑えなくてもいい。
なので多くの兵にスルーされていたのが功を奏したのだ。
「は、はは……存在感、薄くて良かったあ……」
「そ、そんな……!」
「……君も、かわいそうに……年若い少女がこんなに震えて……でも、もう良いんだ……君は失敗したが……死んだらもう、後への責任などないのだから……」
ここで負ければ自分達と同じ事を悪魔は行うだろう。
そう考えながら震える勇者……彼女は10代半ばであろう少女だった。
そんな彼女の頬を撫で……アスセナエルは首から上を魔法で吹き飛ばす。
降り注ぐ血の雨、戦意を喪失した人間達は逃げだし、殺され……魔界からいなくなっていく。
それを見届けながら、アスセナエルは倒れた。
(ああ……どうして、嫌な上席だったのに庇いに入ったんだろう……咄嗟だったからかな……中間管理職根性、染みついてたのかも……)
薄目を開け、自分の行動を述懐するアスセナエル。
その視界に首から上がもげた死体が映り込む。
死した命は循環し、やがて新たな命となりて戻るが定め。
彼女も自分も、そうなるだけだということは分かっている。
だからこそ、アスセナエルは願った。
(この世界は……間違ってる……どうか、オレも彼女も……次は、平和な世界に……ファンタジーの世界みたいな、良い世界に……生まれ、た……い……)
流血により視界がブラックアウトしていく。
血の気の抜けた体は急速に冷え、もう何も聞こえない。
誰かが体を揺さぶる感覚が、さっきまでしていたのに。
もう、何も。
何も感じない。
世界が生まれたとき、まずは何もない無から始まったという。
世界の意思はそこから光をイマジネーションし、無だった闇は闇として存在を確立、光と闇という概念が成り立った。
つまり光が父なら闇は母、良きも悪しきも全てを包む大いなる母だ。
その大きな腕に抱かれ、意識が消えていく……。
アスセナエルはそんな感覚の中で、最後に少しだけ思った。
もう一度……あの仮想空間に入って、百合小説でも読みながら……のんびりしたかったな、と。
だが……。
「……安定! ……の容態は……!」
(あれ、声が……聞こえる……?)
闇に沈んでいた意識が唐突に戻ってくる。
おかしい、明らかにおかしい……。
痛みも段々と全身に感じてくる……だが、手足は動くようだ。
それを確認しながら目を開くと、自分は知らない場所にいた。
「……ここは……?」
「目を覚ましました!」
「おお……! 幸運だ、あの事故で助かるなんて……奇跡だ!」
知らない服装の知らない人達が、知らない施設で自分を運んでいる。
いったい何が起きているのか全く理解できない……。
そんな状態のまま、アスセナエルは問いかけた。
「あの、オレ……」
「動かないで、君は旅行中バス事故に巻き込まれて大怪我をしたんだ、名前は言えるかな?」
「えっ、アスセナエルですけど……」
アスセナエルの返答に、見知らぬ人間は絶望したような顔をする。
そして互いの顔を見合わせると、首を左右に振った。
何かは知らないが、名前を聞いてこれは失礼だろう。
「あの、名前が何か……?」
「君は恐らく、事故のショックで記憶が混乱したのだろう、それで記憶にある天使か何かの名前と自分の名前を混同したんだ」
「へ……?」
「よく聞いて、あなたの名前は六道朝子、家族旅行中に事故に遭って……一家で一人だけ生存したの、お父さんもお母さんも、もう……」
そう言いながら、女性が鏡を持ってくる。
そこに映っていたのは……見知らぬ少女だった。
年の頃は13歳くらいだろうか、髪色は中分けのショートで黒く、肌は黄色人種系……そんな少女がこちらを見ている。
「……これがオレ?」
これが、アスセナエルの……いや、六道朝子の新しい始まりだった。
一度死んだはずの彼は、異邦の地にて目を覚ましたのだ。
人間の……見知らぬ少女として。
毛皮も無い、花皮も無い……完全にかつての姿とは違う、悪魔の頃ともそれ以前の土着神だった頃とも違う姿。
正直戸惑いしかない……だが、同時に淡い期待も生まれてくる。
自分の姿、そして見知らぬ服装の人々……見知らぬ施設。
これはもしかすると……。
「あの、失礼ですけど……今って何歴何年でここはどこでしたっけ?」
「ああ、今は西暦2020年、ここは福島県光之市だよ」
「……! こ、これは……来た……」
呟き、わなわなと震える朝子。
そんな彼女に男女が心配そうに近寄る。
しかし、そんな彼らには目もくれず朝子は叫ぶのだった。
「異世界転生、きたあああぁぁぁっ!!!」
響き渡る咆哮、溢れ出す歓喜の笑み。
当然見知らぬ男女は何を言っているのか理解できない。
しかし朝子は全てを察し、痛みも忘れて嬉しそうにはしゃぐのだった。
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