二つの未来

杜都醍醐
杜都醍醐

運命の日 その四

公開日時: 2020年9月7日(月) 15:00
文字数:2,234

 慌てふためく観客たち。どうやら向こう側の観客席で、何かが爆発したらしい。


「…ついに始まった…!」


 東京オリンピックテロ…。二人の語った未来の内、どちらかが実現しようとしていた。

 近くで爆発音がした。こちら側の客席にもやはり、爆弾が仕掛けられていたようだ。照明は全て消え、薄暗くなった会場に土煙が立ち込める天井を見ると、わずかだが亀裂が走っているのを確認できる。


「何だ?」

「逃げろ!」

「爆弾だ! ひいぃ!」


 無造作に逃げ惑う人たちに押されながらも、瑠瀬は濃子の手を握りしめた。


「大丈夫だ濃子。必ず助かる! 俺の手を放さないでくれ!」

「う、うん!」


 わずかだが、濃子の返事が聞こえた。人混みの中を進むと、出口が見えてくる。


「もう少し……」


 そ出口付近で、急に人が倒れた。一人、また一人とバタバタ倒れていく。何人かは胸を苦しそうに押さえている。


「ガスだ! こっちは駄目だ!」


 誰かがそう叫んだ。瑠瀬と濃子は反転する。その時だ。

 三回連続で、爆発音がした。次の瞬間、観客席の床が陥没した。


「うわあぁ!」


 その衝撃でその場に倒れ込む瑠瀬。しかし、後ろから毒ガスが迫って来る。こうしてはいられない。不安定な地形で、何とか立ち上がる。


「濃子?」


 瑠瀬は、濃子が近くにいないことに気がついた。今の爆発の時、驚いて手を放してしまったようだ。そして濃子も爆発の衝撃で、どこかに倒れたに違いない。土煙が邪魔でよく見えない。


「濃子! どこだ濃子!」


 名前を叫びながら、瑠瀬はゆっくりと前進する。途中、何度もつまずいて転んだ。瑠瀬の全身はもう、真っ黒けになっている。服は所々破れ、肌から少し血が出ている。

 でも止まれない。濃子を安全な場所に連れて行くまでは。

 かなり遠くでも爆発音がした。テロの標的にされたのはこのアクアティクスセンターだけではないらしい。安全な場所は、あるのだろうか?


「濃子? 濃子!」


 返事が聞こえないことが、瑠瀬をさらに焦らせる。

 また爆発音だ。近くの施設で爆発が起きたらしい。その振動が、瑠瀬の足を揺らした。また転ぶ瑠瀬。もうボロボロであるが、それでも立ち上がる。


 目の前に、パラパラとコンクリート片が落ちて来た。瑠瀬は一瞬で後ろに下がった。これが自分の意識であったかどうかは、正直怪しい。本能かもしれない。

 次の瞬間、天井が一部、瑠瀬の目の前に落ちて来た。間一髪で、瓦礫の下敷きにならずに済んだ。しかし足場がさらに歪んだため、また倒れた。


「はあ、はあ、はあ」


 息が上がる。立ち上がろうにも、足に力が入らない。


(もう、駄目か……)


 瑠瀬の心に、少しだけ、諦めの気持ちが生じた。そして一度、目を閉じた。


 その間に瑠瀬は、様々なことを思い出した。

 幼稚園で濃子や朋樹と出会ったこと。

 五歳の時に、変な夢を見たこと。

 それを濃子に話すと、濃子と彼女の母は夢の通りにならなかったこと。

 同じ小学校に上がったこと。

 同じ習い事にも通ったこと。

 朋樹と何度も喧嘩をしては、負けたこと。それを由香が見て笑っていたこと。

 小学校を卒業して、濃子と一緒に遊水地を歩いたこと。

 同じ中学校に上がったが、同じクラスになれなかったこと。

 でも新しい友達と知り合え、仲良くなれたこと。

 三年生になって、やっと同じクラスになれたこと。

 麻林の製糸場に見学に行ったこと。

 濃子たちと渡良瀬遊水地に、バードウォッチングに行ったこと。

 濃子と二人だけで、東京にやって来たこと。


 今までの人生で見て来た光景が、瞼に映し出された。


「ま、まだ…」


 諦められない。口では言えなかったが、心の中で叫んだ。もう一度だけ、瑠瀬は立ち上がった。


 目の前の瓦礫を避けて歩いた。天井と床の両方に注意しながら進む。目を閉じていた間に、少し土煙が収まっていた。これなら少し遠くも見渡せる。

 袖を破って、口と鼻を覆った。どこかでガスが発生しているため、本当はマスクが欲しいが、ないためこれで代用する。気休め程度にしかならないが、しないよりはマシだ。


 瑠瀬の足取りは、不安定だった。力をなかなか入れられないこともあるが、地形が完全に歪んでいるのだ。だから自然と、ゆらゆらとした動きになる。

 気がつくと、自分の横はプールだ。どうやら競技場に降りて来たらしい。


「濃子…」


 見つけた。濃子は、無事なようだ。ただその場に突っ立っている。


「濃子!」


 大きな声で呼ぶと、濃子は反応した。しかし、


「来ちゃ駄目!」


 と叫ぶ。濃子自身もそこから動こうとしない。


「何言ってるんだ? 早く逃げるぞ!」


 濃子は首を横に振った。


「何してるんだ?」

「ごめんね、瑠瀬…。私はここで、死ぬの…」


 濃子の言葉が信じられない。唖然としている瑠瀬に、濃子は語り掛けた。


「実は、平祁の未来を聞いちゃったんだ…。その未来では、私がここで死ぬだけで瑠瀬はとても幸せそうで…。源治の未来よりも、そっちの方がいい。瑠瀬を不幸にしてまで、瑠瀬の側にいたいとは私、思わない。それは瑠瀬の幸せと、ほど遠いから…」


 瑠瀬が近づくと、濃子は後ろに下がる。


「濃子…! 今お前に俺の目の前で死なれて、俺が幸せなワケないだろう…!」

「うう…」


 濃子は反論できなかった。言われてみれば、この状況では瑠瀬の言う通りだ。


「で、でも…」


 躊躇する濃子に瑠瀬が手を差し伸べた。


「一緒に、帰ろうよ。遊水地に…。平祁の未来が幸せだからって、源治には必ず絶望しか待ってないわけじゃない…。俺は濃子と一緒にいられるだけで、幸せだ…」


 濃子の目が涙で滲んでいるのがわかる。濃子だって本当は、こんなところで死にたくないはずだ。

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