三日飼ってもらった犬はその恩を三年間も覚えているということから、恩を忘れてしまいがちな人間への戒めに使う言葉。(ことわざ・慣用区の百科事典より)
うさぎの右頬は、まるで子どもが画用紙に力一杯赤いクレヨンを塗りつけたように赤く腫れてた。俊足に駆け寄り使用済みのおしぼりを宛てがう。うさぎがびくりと肩を跳ね上げた。顔を顰めて、自分の頬からおしぼりを遠ざけようと身じろく。
「痛いんだけどー。てかぬるい」
1時間前から使っているおしぼりだ。咄嗟だったものの衛生上よろしくないと反省する。
マスターがカウンターから出てきて、新しいおしぼりをうさぎに渡した。気だるそうに受け取り、自分でそっと頬に当てる様子から相当痛いのだと窺える。
「うさぎさん、それ……」
「とんでもないアバズレだよ、あの女」
うさぎが低い声で吐き捨てた。
「なんでも屋のモットーに反するけど、金輪際別れさせ屋は絶対請負わない。顔がいくつあっても足りないよ。糸が切れたらどうすんの」
「糸?」
顔にあんこを詰めているアンパンマンじゃあるまいし。
「糸リフト、うさぎさんもしているの?」
「マサコさんもしてるんだー。若返るよね、これ」
「ええ。でも効果が長く続かないから、次するときは切開リフトにしようか悩んでるんだけど」
「わたしも糸か切開かで悩んだー。効果どれくらいできれちゃうのー?」
「あくまで私の場合はだけど、半年くらい。一年保たなかったわ」
うさぎとイノウエの妻は顔に糸を張り巡らせ、皮膚の弛みを引き上げているらしい。整形手術に疎く、また自分の周りにも整形をしている人物がいないいぬは、普段の裁縫に使う刺繍針に潜らせた糸で顔の皮膚をちくちくと縫い込む場面を想像し、戦慄した。それに、目算20代のうさぎが41歳のイノウエの妻と同じ施術で会話に花を咲かせるとは、いやはやうさぎの年齢がますます不詳だ。
溶ける糸と溶けない糸、細い糸と太い糸、はたまたコラーゲン配合の糸やら金の糸やら。張り詰めた雰囲気が解け、あーでもないこーでもないと盛り上がりはじめたイノウエの妻とうさぎに、いぬは軌道修正を図る。
「社長、誰に殴られたんですか?」
糸の存在を確かめるべく顎先から米神をなぞる指先。うさぎは常に煌びやかなネイルアートをしていて、度々ぞうと「どれくらいの時間をかけているんだろう」とか「だから家事が一切できないんだ」とか、話題の対象になった。きっとこだわりがあるはずのネイルアート。中指だけ欠けている。うさぎが欠けた爪を放置するはずがなかった。いったい、どんな死闘を繰り広げたのだろう。いぬは固唾を飲みうさぎの言葉を待った。
「ユキヒロさんの女5号。わたしが働いていた店のキャストでね、運良く共通のお客さんを通じて繋がれたから、不倫はやめなさーいってわざわざ注意喚起してあげたのー。なのに『アタシとヒロくんの邪魔しないで!』ってヒステリー起こしやがって。参ったよ。喚くわ暴れるわ散々」
「そこまで過激な子だったなんて……。ごめんなさい、うさぎさん。治療費はもちろん私に払わせて。どうしよう、とても申し訳ないわ」
「糸切れてたら糸代も請求していー?」
「当然よ。夫からしっかり慰謝料を取ってあなたにお支払いする。約束よ。本当にごめんなさい」
「じゃーいーよ。報告書は明日まとめてメールで送るねー」
「急がなくていいわ。痛みがひどかったらすぐに病院へ行ってちょうだい」
「娘ちゃんひとりにしてるんでしょー? もう気にしなくていいから帰りなー」
イノウエの妻が残りのカクテルをぐびっと煽り片付けた。
「お大事に。うさぎさん、改めてあなたに感謝します」
「またね、ユキヒロさんによろしく」
「伝えるわけないでしょう」
去り際、イノウエの妻がいぬを振り返った。
「優秀な探偵さん。次回があったらよろしくね」
うさぎがイノウエの妻が座っていたスツールに腰を降ろす。
「マスター、とびきり甘いカクテルをくださーい。どろっどろに甘いやつ」
「かしこまりました。……その前に」
カウンターに湿布が置かれた。
「使ってください。よく冷やさないと、治りが悪くなりますよ」
「私が貼ります!」
間近で見ると更に痛々しい。ほくろもしみもない肌の上、丸く熱を放っている箇所に触れないよう慎重に湿布を貼った。赤味は隠れたが今度は湿布の存在が痛々しい。
湿布がなくなった場所に、うさぎが求めた「どろっどろに甘い」カクテルが置かれ、うさぎが飲むのを待ってからいぬは切り出した。
「社長、私、社長が研修のときに言っていたことの意味が、わかっていませんでした」
「どろっどろに甘い」カクテルはチョコレート色をしていて、うさぎがグラスを傾けると内側に色が残った。要望通り「どろどろ」。チョコレート色をしているのだから希望通り「甘い」だろう。しかし、果たして本当に「どろっどろに甘い」カクテルなのか。側からすればうさぎが所望した条件を満たしているが、満たしているのか否かを、いぬは実際に飲んで確認していない。
「『情報は幻』–––私は聞き込みで得た話や依頼主が語るターゲットの印象を、自分で確かめず情報として扱っていました。真実を得るための情報が、情報を得るための真実になっていた。今回、イノウエ様を尾行している者に気付けなかったのは、私が情報だと信じていた情報が先入観だったからです。そして、先入観の原因が情報と真実の区別をつけなかったこと」
「ちなみに誰だと思うー? ユキヒロさんを尾行していた動物は」
「くまさんですね」
「疑問系じゃないんだ」
「だって今社長、『動物』って仰ったから。それにくまさんはずっと、長期の依頼に入っていると聞いています」
「そうだねー。でも、もしかしたらうち以外にも全員が動物を名乗る狂った会社があるかもしれない。もしかしたらユキヒロさんを尾行していた者はひとりじゃないかもしれない。もしかしたらユキヒロさんが雇った事務所はうちだけじゃないかもしれない。もしかしたら–––」
「そんなに考えたら、頭がおかしくなりそうです……」
耳を垂らし首を振る。うさぎが軽快にあははと笑った。
「ごもっとも。ここまで考えろとは言わないけど、自分で確かめていない事柄はまず疑ってかかる心構えがあるといいよー。じゃないといつか、壺とかパワーストーンとか買わされちゃうぞ」
壺にもパワーストーンにも興味がないから買わないと思いつつ、自信を持って反論できない。
「わたしがイノウエ夫妻に出資した話は聞いた?」
「はい。イノウエ様が店を出すときに、社長が助けたと」
「無期限無利子で貸したんだけど、ただほど怖いものはないってよく言うじゃん? だから約款を作ったの。ひとつだけ」
うさぎの横顔が一瞬歪んだ。そうするつもりじゃなかったのに、不可抗力でそうなってしまった表情だった。
「店を継続する間、夫婦で共に歩み続けること」
「約款だからもーちょっと堅苦しく書かれてんだけどね」とうさぎが付け足す。
「半年前、マサコさんに知らされてから徹底的にユキヒロさんの調査をしてたんだけど、とんでもない性欲だよあのおっさん。出るわ出るわ女たち。計16人。ひとりひとり詳細に調べてるうちにこーんなに長引いた。だって女いすぎなんだもん。大変だったよー」
いぬは合点がつく。
「だから社長、さっき『尾行していた者はひとりじゃないかもしれない』と仰ったんですね」
「こんなに長引くなんて予想外でさー。はじめはくまひとりに任せてたんだけど、ほら、うち週休2日制じゃん。くまが働き詰めると労働基準法違反になるから、わたしとねこも加わって交代しながらやってたの」
「ねこさんも?」
「ねこはいぬに劣るけど、写真の解析ができるから。でも尾行はだめ。あれは才能ないね。おかげでユキヒロさんに勘付かれた。で、焦ったユキヒロさんがまさかうちが自分の調査をしているとは思わず、うちに妻の依頼をしてきたわけ。マサコさんの黒い部分が炙り出せればラッキー、炙り出せなかったとしても、『妻を調査せざる得ないほど、妻が不審な行動を繰り返していた』っていう、まあ裁判に使えるか使えないかは置いといて、材料は作れるでしょ。料理人としての腕は素晴らしいけど、人間としてはくずだねー」
「社長」
「なにー?」
いぬができる尾行や写真の解析は、くまもねこもできる。しかしくまは様々な分野に明るくフレキシブルに依頼をこなせ、ねこは格闘技一家の生まれで身体能力に優れ護衛の依頼に関して右に出る者はいない。
「私、くび、でしょうか……」
突飛したなにかがないことは一般的な会社では吉と出るが、この職業では凶と出る。
マツナガの教えを後生大事に守り、教えを超え突き抜けることを考えつかず仕事をしていた。だからこそ、うさぎはいぬにこの依頼を与えたのだ。早く気づけと。
そっと、頭に手のひらが置かれる。
うさぎが言った。
「これからに期待する」
勝手に流れる涙を拭い、頭を撫でる華奢な手を取り握る。いぬは誓った。とても大切なことを教えてくれたうさぎを、落胆させるわけにはいかない。
いぬがうさぎの手を離すまで、うさぎはいぬの手を離さないでいてくれた。
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