まさか、うちの夫が……。夫の不貞行為を知った妻の台詞No.1である。
「まさか、うちの夫が……」
自分がこの台詞を口にする日がやってくるだなんて。くまがぞうに告げた調査結果は予想していた内容と同じだった。今日の今日まで然る日に向け弁護士を探したり慰謝料について調べたりしていたぞうは、にも関わらずその場で泣き伏した。
高校2年の夏。特にしたいことがなく、ならばとりあえず大学へ進もうと思っていたぞうは三者面談でそれをオブラートで包み担任と母に伝えた。夜、仕事から帰った父が晩酌を済ませぞうを呼ぶ。酒を飲もうと飲むまいと穏やかな父は穏やかにぞうを諭した。
「大学へ行くことは大賛成だ。今の時代、大学までが義務教育みたいなものだからな。だが、なんでもいい。仕事に繋がらなくても構わないから、好きなことを見つけなさい」
父の手前「好きなこと」を模索するふりをしつつ、勉強は3年生に上がってからすればいいやとこれまでと変わらない生活を続けていたぞうに、転機が訪れる。
「すいません、少しお時間よろしいですか」
原宿の竹下通り。声をかけてきたのは中年の女性だった。
「私こういう者でございます。不躾で恐縮ですが、芸能界に興味はございませんか」
「芸能界?」
「はい」
「え、これってスカウトですか?」
一緒にクレープを食べていた友人が唇の端に生クリームをつけたまま尋ねた。女性があっさり頷く。
訝しむぞうとはしゃぐ友人。女性が告げたプロダクション名は、ぞうが毎月買っているファッション雑誌のモデルが所属している事務所だった。
「もしもご関心があれば連絡をください」
家に帰り母に話すと、はじめこそ怪しいと鼻の付け根に皺を寄せていたが、やはりプロダクション名を聞くと目の色が変わった。
「そこって、あのヒロセリンちゃんがいるところよね? すごいじゃないあなた! ママにしっかり名刺を見せて」
毎年ミスコンに力を入れているA大学で準グランプリを勝ち取った過去を持つ母は前向きで、肝心のぞうはというと「好きなこと」を見つけようにもどう見つければいいのか迷子状態だったため、「モデル」を「好きなこと」にできればいいな、くらいの気持ちだった。お給料高そうだし。
母が反対する父を説得し女性に連絡を取り、親子と事務所で話しあいを重ね、いくつかのオーディションを受け、高校3年生に上がった春、ティーン向け雑誌のモデルをはじめた。最初こそ探すならば虫眼鏡が必要なくらい些細なカット1枚だけだったが、仕事は順調に増え、高校を卒業する頃には1ページを割いて載せてもらえるようになっていた。大学は仕事に全注力を注いだばかりに勉強が疎かになり、滑り止めへ入学。父は落胆していたけれど、ぞうは別によかった。将来はモデルとして生きていく。だから大学なんて必要なかったのに。今、ぞうは思う。私は世間知らずだった。
モデルの仕事は楽しかった。
170㎝を超えるスレンダーな長身に童顔というギャップが大いにウケた。深夜枠のバラエティ番組でレギュラーを務めたり、当時20代の間で最も支持されていた雑誌で見開き2ページにわたりぞうの特集が組まれたり。忙しくなるにつれ大学生活はおなざりになった。そして3年生の春、ぞうは大学を辞めた。
ピンチが訪れたとき、ぞうは26歳だった。
世間で素人同然な「読モ」が流行り、瞬く間にぞうを追い抜いた。引き算を知らない濃いメイクを顔に施し、ぺらぺらな、誰でも買えるファストファッションに身を包んだ読モたち。大概が皆「やばーい」と「すごーい」を繰り返すだけなのに、バラエティ番組に引っ張りだこだった。しかもぞうが出演していた深夜の枠ではなく、ゴールデンタイムの枠で。ぞうは落ち込まなかった。私はまだ終わっていない。これからだと自分を奮い立たせた。
しかし仕事は増えず、むしろ減っていった。
なにがおもしろくて、あんな町中にいくらでもいるようなまがいものたちにスポットライトを当てるのか。
悔しかった。
そろそろバイトとの掛け持ちを考えなければ。そのタイミングで、ぞうはプロポーズを申し込まれる。
「僕と、結婚、してください」
この時ぞうは再び転機がやってきたと思った。だが先に結論を明かすと、プロポーズの主、トヨくんとは4年で別れることとなる。
「ぞうさん、飲みすぎていませんか?」
ぞうが夫の不貞行為を暴くため訪れたのは現在働く「株式会社 動物園」。調査を担当したのはくまだった。くまは優しい子だ。こうしてなにかとぞうを気遣う。
「久しぶりに飲んだから酔いが回っちゃった。やっぱり焼酎は芋に限るわ」
「飲兵衛なこと言いますね。ちなみに僕は麦派です」
「へーい姉さん! 飲んで飲んで飲んでー!」
割り入ったとらがぞうを煽り、ぞうが首を振ると自らハイボールを一気に片した。くまの肩に腕を乗せ絡む。
「くまー、お前もしかして姉さん口説いてんの? 姉さん、こいつむっつりスケベだから気をつけてくださいよお」
「ちょっととら兄、飲みすぎ。すいませんぞう姉さんとくま兄さん。ほらとら兄、あんたは大人しく端っこで寂しく飲んでろ」
「あーあー、いっつもお兄ちゃぁんって、可愛かった妹はどこに行っちゃったんでしょうねえ。お兄ちゃん悲しいよー」
「あたしも兄がこんな酒癖の悪いくずになって悲しいわ」
酒好きが集まる株式会社動物園の飲み会は、誰かが上手く切り上げないと皆死人が出るまで酒を浴び続ける。もっぱらその役割はぞうだが、今日は使い物にならない。泥酔に近い酔い方をしてしまった。となると、頼みの綱はくまのみ。
「ほんっと、くまくんが帰ってきてくれてよかった」
「あはは、ぞうさん、社長苦手ですもんね」
「苦手じゃないわよ。苦手じゃないけど、だってあの人仕事しないんだもの」
くまが笑う。
「まあまあ。うさぎさんは結構、ガラスのハートの持ち主だから。優しくしてあげてくださいね」
うさぎのどこにガラスのハートが仕舞われているのか、解剖して指し示してほしい。
くまがお開きの号令をかける。壁の端ではいぬが机に額を預け寝ていた。確かいぬの家は埼玉の方だったはず。大丈夫だろうかと自分を鑑みずにいると、くまがうさぎに電話をかけた。
「いぬちゃんが酔って寝てしまったので事務所のベッドお借りしたいのですが、今日のご予定は?」
どうやら今日のうさぎは事務所のベッドじゃないベッドで眠るらしい。できる男•くまはスマートに会計を済ませ、続いてアプリでタクシーを3台呼んだ。1台はくまといぬ。くまがいぬを事務所へ担ぐらしい。1台はとらとねこ。実家から出社しているとらは一人暮らしをしているねこの家へ上がり込むという。最後1台はぞう。全員と方向が違うので単独で乗り込む。
絶叫のアトラクションでひとしきりはしゃいだ後みたいに、頭の隅から隅までがふわふわとしていた。ああ、そうだ。いぬが見たがっていた昔の雑誌を探してみよう。今なら多分、なんの気概もなく見れるはず。たまには酒も悪くない。鼻歌を歌ってしまうくらいにぞうの気分は最高だ。
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