犬がふらふら出歩くと、棒で殴られるような災難に遭ったりする。じっとしていれば良いのに、余計な行動を起こすべきでないとの戒め。(Wikipediaより)
以下、いぬの業務ノートより一部抜粋。
イノウエ ユキヒロ(43歳)
自宅→東京都渋谷区広尾◯ー◯◯ー◯
•社長のパパ6号→何人中かは不明
•広尾でレストランを経営している→来年春に神楽坂店をオープン予定
•歯が白い
•はげ
•家族構成→妻と娘→18歳
•趣味は釣り
イノウエ マサコ(41歳)
•専業主婦
•月曜日→生花教室
•水曜日、金曜日13:00〜→パーソナルジム
•土曜日、日曜日→娘と出かけるか凝った料理を作る→イノウエ談
•趣味はボランティア活動→ご近所談
•PTA役員や町内副会長を勤めていた→任期を終えてから習い事をはじめる
•完璧主義→イノウエ談
「あー依頼がすっからかんだよー。今月赤字だよー。世のみなさーん、ボーナスはいつですかー? はやく私に貢いでくれないと、うさぎ寂しくて死んじゃう」
「社長、まさかとは思いますが我々のボーナスを忘れていませんよね?」
「……仕事してくる」
「えっ社長まじで忘れてたんすか! 俺、ボーナス当てにしてゲーム買っちゃったんすけど! つか仕事ねえだろ!」
ぞうととらがやいやいうさぎを責めてる。入社1年目のいぬはデスクに広げたノートに構わず項垂れた。
うさぎが従業員から顰蹙を買う光景は出勤時に乗る電車と同じくらい日常だ。ゲームがいかに高額だったのかを語るとらに同情すれど、今は他人を励ます気力はない。
「いぬちゃん、ぐったりしちゃってどうしたの?」
「ぞうさーん」
頭を撫でてくれるぞうに抱きつく。いぬが現在遂行中の依頼は本日で最終日を迎えた。月曜日から日曜日までの1週間、妻の動向を探るという不倫調査だ。依頼主兼うさぎのパパ6号であるイノウエは妻の不倫相手に大まかな目星を付けており、いぬはその共有通りに尾行をしているのだが–––。
「まったく尻尾を出さないんですよ……」
まるでいぬがイノウエ家の不幸を願っているような台詞だが違う。いぬの特技は被害妄想だ。「私の調査能力が低いから結果が出ないんだ……」と自己嫌悪に陥った末の発言である。
「目星は付いてるっつっても、証拠は一切ないんだろ?」
あまりに落ちているいぬにとらが言う。
「おっさんの勘違いなんじゃねえの? 結構多いぜ、そういうの」
いぬはこの6日間、可能な限りイノウエの妻を尾行した。しかしジムの内部や公共施設へは潜入できない。空白の時間を埋めるため交友関係や行動範囲を洗ったが潔白だった。僅かな期間で集めた情報は決して多くないが、それを基にイノウエの妻を推測するとなればこの一言に尽きる。
良妻賢母。
「今日はどうすんの?」
「日曜日はイノウエ様のお店が休みなので家族団欒をしているそうです。一応イノウエ様と連絡を取り合っていますが、現状変わった動きはありません」
「へえ、不倫調査依頼しておきながら家族団欒とは。おっさんタヌキだなー」
「調査中だからこそ依頼主には普段通りにふるまってもらわないと困るのよ。ターゲットに気づかれたら大変でしょう」
まさしくそうだった。イノウエには普段通りのふるまいをするよう、いぬからお願いをしている。
「詳しいですね。ぞうさんも不倫調査の依頼をしたことがあるんですか?」
いぬの問いにぞうの表情が一瞬強張った。
またやってしまったと後悔するも、口から出た後では取り消せない。モデル時代の話を聞いたときもそうだった。どうやらいぬはぞうの地雷を踏みまくってしまうらしい。
「前にくまくんから聞いたのよ。いぬちゃんが入社するまでは、くまくんがこういう依頼をこなしていたから」
「そういえばくま、また長期の依頼だって」
話題が逸れて安心する。
先日はじめて挨拶をしたくまはいぬよりひとつ年下だが、株式会社動物園の設立当初から働く大先輩だ。様々な分野に明るいことが重宝されクライアントを複数抱えている。長期に渡る依頼や海外への出張が多いらしい。
「マリオカートいっしょにやろうと思ってたのになー」
「あら懐かしい。私も昔よくやったわ」
「ぞうさんルイージっぽいっす」
「とらくんはキノピオね」
「俺の身長が小さいからっすか!?」
「今回はくま、すぐに帰ってくるよー。1ヶ月後だけど」
いつの間にやらTシャツ姿だったうさぎが可憐なワンピースに着替えていた。
「じゃ、わたし出かけるからー。あとはよろしく」
「またパパ活ですか」
ぞうの非難を右から左へ受け流し、颯爽と玄関へ向かううさぎ。ふと振り返り、いぬを見つめた。
「研修で教えたことを忘れずに」
「は、はい!」
咄嗟に返事をしたものの、いぬは「客と接するときにいちばん大切なこと」の本質をまだ、理解できていなかった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!