株式会社 動物園

普通について。
あかさた菜
あかさた菜

⑤兎を見て犬を呼ぶ

公開日時: 2022年1月30日(日) 18:06
更新日時: 2022年2月17日(木) 14:30
文字数:2,834

事を見極めてから対策をしても遅くない、また、一見手遅れに見えても対策次第で間に合う場合もあるため、諦めてはいけないということ。

兎を見つけてから猟犬を呼ぶ、もしくは兎を見つけてから猟犬を呼んでも遅すぎる、手遅れという意味から。(ことわざ辞典より)



 2杯目のカクテルはジンがベースに使われており、ほんのり香るレモンの風味が飲みやすい。刺激的な炭酸のおかげで機能を停止していた脳神経が回復の兆しをみせた。よし、と気合いを入れスツールを左に回し、体ごとイノウエの妻に向ける。勢いあまり一回転してしまったがご愛嬌で。


「あの、社長と会われたんですか?」

「半年ぶりにね。私たち、もともと知り合いなの」


 オレンジ色の照明の下、イノウエの妻のごたごたにマスカラが塗られたまつ毛が、落ち窪んでいる頬に影を落とす。


「うさぎさんは夫の出資者なの。–––ホテルのレストランで支配人をしていた夫が自分の店を持つときに、初期投資をしてくれた。料理人としての夢を叶えたい、でも私たちの夫であり父であることを鑑みると、独立せずに雇われていたほうが安泰–––葛藤して精神的に参っていた夫を、私は支えられなかった。頭ごなしに安定した生活を望める雇われの道を押し付けたわ。夫は天邪鬼だから私に意見されると反発した。夫婦喧嘩が絶えなくなり、どちらともなく離婚の話が出た矢先、うさぎさんが夫に多額のお金を利子なしで貸すと申し出てくれたの」


 うさぎが金を貰いはすれど貸すなどありえない。いぬは驚きのあまり前のめりになった。


「店を出して1年。1年で結果がでなかったら、潔く諦める。雇われに戻り、2度と夢は見ない。夫はそう言って、挑戦させてほしいと私に頭を下げた。夫が私に頭を下げるだなんてはじめてだったんだけれど、私はそれどころじゃなかった。出資者が女。しかも若くて、元ホステス。飲み屋で知り合ったと聞いて、ますます受け付けられなかった。水商売の女を信じる夫にどうかしていると抗議して、追い詰められてまともな感覚を失ったのだと、必死に心療内科の受診を勧めたわ」


 「うさぎさん」と呼ぶイノウエの妻は、たまに「う」と発音をする直前に躓いた。言い直す様子から推測するに、うさぎの本名を知っていて普段は本名で呼んでいるのかもしれない。


「夫にどうしてもうさぎさんと会ってくれ、話し合いがしたいと言われて応じた。私は夫とうさぎさんの不貞を疑っていたからね。これがうさぎさんとの出会いよ。–––さっき、夫にはたくさんの女がいるって話をしたでしょう?」

「はい」

「店が成功してからなの。以前は真面目な人で、たまに付き合いで飲みに行くことはあっても、遊ぶような人じゃなかった。だからこそうさぎさんの出現は、私にとってとんでもない出来事だった」

「奥様は社長からの支援を許したから、今イノウエ様は店を出せているんですよね」

「ええ。話し合いの場で、疑いの目を向けうさぎさんの言葉に耳を貸さない私に、うさぎさんはこう言ったの。『ご自身にとって、最善の選択をしてください』って」


 イノウエの妻が自嘲する。


「はっとした。私は夫の妻である私、子どもの母である私、立場から逆算しての未来しか想定していなくて、私自身のことをまったく配慮していなかった。本当は私、夫の夢を応援したかったの。愛する人の夢だもの。私も一緒に、叶えたかった」

「わかります。大好きな人を応援したくて、応援するために、一生懸命になる気持ち」

「あら、若いのにあなたも経験したのね」

「はい。私の場合は彼氏だったんですけど」


 ユウくんはいぬにとって苦い過去だが、こういう場面で使えるネタになった事実に少し報われた気がした。


「うさぎさんは私に、自分がどんな仕事をしていてなぜお金を持っているのか、夫に出資する理由や夫との関係の証明もしっかり説明してくれた。3度目の話し合いでうさぎさんから出資をいただくことに決め、店を始めて今年で5年。うさぎさんからの出資と足りない分を賄うため銀行から仕入れたお金は返済を終え、これからはうさぎさんへ恩返しをするはずだったのに」


 いぬは自分の憶測を確かめようと口を開く。


「奥様、私がイノウエ様に依頼を受ける前に、奥様は依頼をしていましたか?」

「どうして、そう思うのかしら」

「勘です。でも、根拠はあります。イノウエ様が女性たちと関係を持つようになったのは店が成功してから–––私は『成功』の定義はわかりませんが、社長や銀行にお金を返済し、2店舗目をオープンできるほどの余裕が生まれた頃と仮定します。たしか、2店舗目のオープンを決めたのは半年前ですよね? 奥様が社長と最後に会われたのも半年前。奥様は我慢の限界だった。経緯については計り知れませんが、半年前、奥様は社長にイノウエ様の調査を依頼したのではありませんか?」

「大まかにはご名答ね。離婚をするにしても、夫にお金がなければ慰謝料も養育費も踏み倒される恐れがある。一緒に夢を叶えるために尽くしたつもりだったけれど、夫は店が上手くいくにつれどんどん傲慢に、自分勝手になった。娘がお父さんの顔を見たくないと言うほどに」

「奥様はイノウエ様の成功を待っていたんですね」

「そうよ。当初とは違う意志でね」


 アルコールで膨張した体が熱い。額に浮かぶ汗を拭った。察したマスターがチェイサーを置いてくれる。しかしいぬが礼を言い手を伸ばす前に、イノウエの妻が素早く取っていっきに飲み干してしまう。


「ごめんなさいね、喉が乾いていて」

「い、いえ……」

「いぬさんは名探偵ね。すごいわ」

「すごくないです。こんなに沢山のヒントをもらわないと結論に辿り着けないだなんて、未熟すぎて恥ずかしい」


 謙遜ではない。イノウエの妻はおそらく、株式会社動物園にイノウエの不倫調査を依頼した。どういう経緯で長期化したのかはわからないが、いぬがイノウエの妻を尾行している間、いぬの依頼主であるイノウエは尾行されていたのだ。調査をしていた1週間、イノウエの妻が夫の店に届け物をする程度の短時間だがイノウエ夫妻が行動を共にする瞬間があった。それなのにイノウエを尾行している者に気づけなかったこと、違和感すら抱けなかったこと–––探偵業を担う存在として、痛恨のミスに違いない。


「詳細な答え合わせはうさぎさんが来てからにしましょう。もうすぐ着くはずだから」


 イノウエの妻がいぬ越しに入り口に視線をやる。扉が開き、上部に取り付けられた鈴が軽やかに鳴った。


「やっほー、こんばんはー。株式会社動物園社長、うさぎでございまーす」


 渾沌とした空気を一掃する、舌足らずで間伸びした喋り方。


 おどけて敬礼をするうさぎの出現に、いぬもイノウエの妻も、目を丸くした。


「社長、その顔、どうしたんですか!?」

「はあ? いぬ、誰の顔がどうしたって?」


 違う意味に捉えたうさぎがいぬに突っかかるものの、いぬは怖じけることなくお絞りを握りしめうさぎに駆け寄る。


 うさぎの頬は、今しがたそうされたかのように、赤く腫れていた。

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