タクシーを降り千鳥足でオートロックを解除する。ぞうの住居は池袋にほど近い駒込駅から徒歩10分、築5年の低層マンションだ。間取りは2DK。元夫により–––正しくは元夫の両親によりローンは完済されている。ぞうが離婚を対価に手にしたひとつであり、もうひとつは慰謝料の200万円。このふたつのおかげでぞうはそこそこゆとりのある生活ができている。
「どこだったかしら?」
正確には「どれだったかしら?」だ。
2つある部屋のうち手狭な方は元夫が書斎にしていた。主である元夫がいない今、かつては几帳面に資料や本が並べられていた空間は今や衣装部屋–––と形容しがたい物置になっている。同じ形、同じ色をした段ボールの山々。ほこりは久々に現れたぞうを歓迎し優雅に舞う。不貞を行った元夫が使っていた部屋を掃除する気になれず、放置していた有様がこれだ。自業自得という四字熟語は酔ったぞうの気持ち良さを怒りへ変える。
「なんでこんなに汚いのよ。私、ハウスダストアレルギーなのに」
段ボールにはそれぞれ「冬服」だとか「台所」だとか、マジックペンで大雑把に中身の正体が書かれている。ぞうは過去の自分を褒め称える。欲を言うならばもう少し詳細に記してほしかったが仕方がない。過去のぞうはまさか未来の自分が、ぐうたらくに段ボールを放置する女になるだなんてつゆも知らなかった。
埃を手で払い除けながら発掘した「アルバム」の段ボール。重労働に薄ら汗をかいたぞうはしゃがみ込む。疲労感は三千里歩いたほどだ。やっと見つけた段ボールに手を伸ばすも、封をしているガムテープを剥がす指先がどうも進まない。
それもそのはず。モデルをしていた頃、ぞうは元夫•トヨくんと交際中だった。この段ボールの中には、トヨくんもいる。
ぞうがトヨくんと再会したのは成人式だった。
中学3年生のときの同級生で、図書委員会で数回顔を合わせた程度の間柄。実用性を重視しただ切られている短髪やぞうと同じくらいの背丈、少しぽっちゃりした体つきはまったくぞうの好みではなかった。
後の2次会。
ぞうは芸能界についてや最近話題のだれそれについてを根掘り葉掘りされており、慣れない振袖を着た疲れがどっと湧いていた。飲み放題の2時間を過ぎても騒ぎ続ける不届き加減は若さの象徴である。うんざりしながらスマホで電車の時刻表を調べていると、トヨくんが話しかけてきた。
「ああ、よかった。酔ってなさそうだね。悪いんだけど会計、今もらってもいいかな。ひとり当たり3千円」
几帳面にレシートをぞうに見せる。
「1万円札しかないんだけど、崩せる?」
「まじか。僕も1万円札しかないんだ」
困ったが幸いぞうもトヨくんも地元から出ておらず、後日直接渡すことになった。
慎重と言える期間を友人として過ごし、やっと交際してからトヨくんがぞうに打ち明けた。本当はこのとき、ぞうの連絡先を知るために必死だったのだと。
一般的な適齢期、27歳で結婚をし、生活そのものも一般的だった。
ぞうは結婚と同時に事務所を辞め芸能界を去った。扶養内に収まるよう週に3回パートをし、それ以外は出世街道を走るトヨくんを支えるべく、栄養価に気を遣った料理を作り住処を清潔に保つ。トヨくんはいつもぞうに感謝をしてくれた。
「僕が頑張れるのは君のおかげだ」
月に1度はデートをし、祝い事のない平日にはぞうが好きそうだからという理由でスイーツや花を買ってきてくれる。
幸せだった。
とても、幸せだった。
株式会社動物園にトヨくんの不倫調査を依頼した際、決定打があったのにも関わらず、ぞうは心の片隅でトヨくんを信じていた。
「トヨくん、なにこれ」
ワイシャツの胸ポケットから、1枚の領収書が出てきた。
ホテル ディアレスト
トヨくんとまだ恋人だった頃に数回行った、池袋にあるラブホテルの名前。
ぞうが差し出した領収書を前に、トヨくんは焦らなかった。
「この間の飲み会で部下が酔い潰れたんだ。あまりにも気持ち悪そうだからタクシーで家に帰すのは危険だと判断して、ホテルに運んだんだよ。小1時間休ませた」
「その部下は女性? 男性?」
「男に決まってるだろう。男ふたりでラブホテルはなかなか恥ずかしかったな。今度、また行こうか。昔みたいに」
トヨくんの甘い言葉や唇。「嫉妬なんてかわいいな」久しぶりのトヨくんの腕の中、ぞうは疑惑を拭えなかった。
調査結果の文書と共に入っていた写真。トヨくんは小柄な女性の肩を抱きホテルへ足を向けていた。そのホテルの看板は「ホテル ディアレスト」だった。
ぞうは机に突っ伏した。衝動で手付かずの麦茶が揺れ、コップから溢れる。ぞうの袖にかかり、慌てたくまがぞうにタオルを渡した。ぞうは受け取らなかった。しばらく泣いた。
「弁護士をお探しであれば提携先を紹介できますが」
「いえ–––もう探しています。だから、大丈夫です」
トヨくんの不倫相手は職場の部下だった。写真を突きつけると、今度こそトヨくんは焦った。
そして土下座をし
「別れてくれ」
とぞうに懇願した。
ぞうはなかなか子供を授からなかった。当然だ。セックスレスだったのだから。モデルを辞めてからぞうは瞬く間に太った。
「前が細過ぎだ。今がちょうどいいよ。健康的になった」
はじめは肯定的だったトヨくんも15kg太るとさすがにぞうを咎めた。セックスレスになりやっと痩せなければと意気込むも、加齢した体は脂肪を作りはするが離しはしない。ダイエットは続かず、結局モデル時代からプラス15kgを維持するに精一杯だった。
不倫相手は妊娠をしていた。
「このマンションは君に渡そう。慰謝料も払う。僕にできる償いをするから別れてくれ」
1度トヨくんを交えて不倫相手に会った。
ゆるく巻かれたミディアムヘアーとブラウンを基調としたメイク。どこにでもいる平凡な、平凡だからこそかわいい女だった。
弁護士を雇ったのはぞうだけで、トヨくんは弁護士を介したぞうに言われるがまま、マンションを明け渡し、慰謝料を支払った。
離婚が成立して1年。
この1年、ぞうはトヨくんの面影を徹底的に排除し生活をしている。
いぬに申し訳ないが、ぞうはまだこの段ボールを開けることができない。
酔いが醒めた体は気怠い。せめてメイクは落とさないと。のろのろ立ち上がる。ジーンズの内側、床に付けていた面に埃が張り付いていた。その場でジーンズを脱ぎ捨てる。
「アルバム」の段ボールは、いつかそのときが来たらすぐに開けられるよう、扉の真横に移動させた。
拭き取りクレンジングを含ませたコットンを適当に肌に滑らせ、ベッドにダイブした。翌朝ぞうはスキンケアを怠ったばかりにがさがさになった肌と二日酔いに格闘する羽目になる。酒は飲んでも飲まれるな、だ。
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