ぼーくはくま、くまー、くまー、くまぁー
くーるまーじゃないよっ
くま、くま、くまぁー
スマホが鳴く。「くま」を連呼する歌声に促されディスプレイを見ると、実に珍しい人物からの着信だった。
「あら、ガールフレンド?」
設立当初から懇意になっている依頼人のツルハがほくそ笑む。「まさか」と答え、膝の上で眠る少女が起きないよう「ぼくはくま」の音量を落とした。
気づいたツルハが少女を引き取ろうと立ち上がる。
「ちょうど今作業がひと段落したから、休憩しようと思っていたの。遠慮しないで電話を取ってちょうだい。ほらーミヤビー、お兄さんこれからもしもしーするから、こっちおいでー。お布団行こうねー」
ツルハの呼びかけに僅かな唸り声のみを返す少女。眠たそうに右瞼を左手でこすりながら、両手を広げるツルハの首に抱きつく。くまに良く懐いている少女が「くまたんと離れたくない!」と駄々をこねてくれれば電話を無視する免罪符ができたのだが、少女はあっさり母の元へ行ってしまう。こうなれば通話をする他ない。
膝から太ももにかけて、まだ少女の温もりが残っている。スマホを手にしながら、この絶妙なタイミングで「ぼくはくま」が途絶えてくれればいいなあと思う。しかし宇多田ヒカルはくまの願いを叶えることなく歌い続け、くまはしぶしぶ通話ボタンを押した。
「もしもし」
「私だ。元気か」
もう何年も会っていない父の声。機会越しに聞いただけで厳格な顔がありありと脳裏に蘇る。
「はい、元気にしています。お父さんは?」
「私はいつもと変わらない」
「そうですか」
なにを話したらいいのかわからない。
不動産会社を経営する父は忙しく地方八方を飛び回る人で、くまは父と過ごした記憶がほぼない。見本にすべき男親がおらず、自身で立ち上げたアパレルブランドのデザイナーをしている母に育てられたためか、くまの感性は女性寄りだ。幼少期は仮面ライダーよりもプリキュアにはまり、今もそうだが遊び方はアウトドアに公園で鬼ごっこに興じるよりも、インドアに部屋にこもりお絵かきや読書をするほうが好き。父は帰宅する度に、なよなよしているくまを叱責した。5歳の頃無理矢理剣道を習わされたときは、道着を纏い防具を身に付けたまま裸足で逃げ出したものだ。父はそんな息子の性質をロココ調を得意としファッションを手がける母のせいにした。
「男のくせになよなよしよって! おい、お前の教育が悪いからだぞ!」
けれど父におんぶにだっこをされていない母は、
「よくもあなた、あたしに文句が言えるわね」
と毎回最終的に父を言い負かしていたのだから恐れ入る。
「お父さん、なにかありましたか?」
母やうさぎとは気にならない沈黙も、父とであれば苦行だ。
ちなみに前回の電話で父は開口一番に「間違ってもばあちゃんを弔おうとするな」とくまに命じた。大好きだったおばあちゃんの七回忌に出席することを拒まれたのだ。理由は「親戚一同に私の息子が中卒と知られるわけにはいかない」。くまは反論せずに従った。そして第2の母・おばあちゃんの7回忌を欠席した。
「なんだ、用事がないと電話をしたらいけないのか」
「そんなことはありませんけど……」
言い淀むくまに、父が不機嫌になる。
「息子の様子が気になっただけだ。声を聞いたからもういい。じゃあな」
唐突に電話が切られた。
くまは大きく息を吐き出し、壁に背中を預ける。ふわふわのラグが足の裏をくすぐった。10本指。さっき、少女が褒めてくれたペディキュアの鮮やかな浅見色。これを見たら父はなんと言うのだろう。想像すると笑ってしまう。当然ながら自嘲だ。
「男のくせにこんなものを塗りおって!」
スマホを隔てて聞いていたはずの声。ダイレクトな鮮明さを保ちくまを詰る。頭が痛い。脈絡なく、幼少期の悲しい思い出が不規則な波のようにくまを襲う。
幼いくまにお姉ちゃんがくれたテディベア。とてもかわいかった。くまは愛しいテディベアへ、母の見様見真似をしとっておきのワンピースを作った。黄色い小花柄の生地に、レースをふんだんにあしらったワンピース。テディベアに着せるととてつもなく似合って、嬉しかった。自分が作った服を着るテディベア。くまはますますテディベアに愛着し、肌身離さずどこへでも連れて行った。1ヶ月に1度、お家に遊びに来るお姉ちゃんに次会えたとき、見せようと楽しみにしていた。ああ、そういえば、お姉ちゃんもこのワンピースが似合いそう。お姉ちゃんにも着てもらいたい。
ギーンギラギンにさりげなくー
そいつがーおーれのやりかたー
まるで夕闇だ。過去の海に溺れかけているくまを正気に戻す、陽気なアップテンポ。
ギーンギラギンにさりげなくー
さりげなくー生きるだけさー
くまは唯一を除き、着信音をすべて「ぼくはくま」に設定している。
ディスプレイに表示された名前を確かめる必要はない。くまはスマホを耳に当てた。
「やっほー、こんばんはー。うさぎちゃんだよー」
今、とても聞きたい声がした。
けれど四六時中舌ったらずな喋り方をするうさぎだが、今日はいつにも増して呂律が怪しい。
「うさぎさん、酔っ払ってますか?」
「わかってるんだったら聞かないでよー。ツルさんとミヤちゃんは元気にしてるー? あとくまも」
「ツルハさんは相変わらず仕事をばりばりやっていて、ミヤビちゃんは言葉が達者になりました。子どもはすごく成長が早いんですね。ミヤビちゃん、英会話教室の男の子に告白されたらしくて、僕にこっそり教えてくれました。『あたち、かれち今ほしくないんだよねぇ』って」
「ませてるねー。ちゃんと教えてあげたー? 不純異性交遊及び不純異性行為はいかなる場合においても自分で責任がとれるようになってからにしなさーいって」
「そんなこと言えるわけないでしょう!」
くまが咎めるとうさぎが笑った。きゃはは、と声を出す。うさぎにしては珍しい笑い方だった。
「ふたりともうさぎさんに会いたがっていますよ。あ、そうだ。プレゼントを預かったんです。ツルハさんがデザインしたシャツ。ライトグリーンの生地にネイビーの幾何学模様がプリントされていて、これ、絶対うさぎさん気に入るだろうなあ。はやく渡したい」
ツルハさんはくまの母と同じくファッションデザイナーだ。原色や不可思議な模様を独自に組み合わせた個性派で、ツルハが作る洋服の数々は「美術品」に近しいと業界きっての評論家がメディアで発言したことにより、一躍有名になった。
繁忙期に差し掛かるとこうしてくまを家政婦として雇い、報酬と別にお手製の服を持たせてくれる、株式会社動物園のお得意様。
「へえ、楽しみ。くま、いつ帰ってくるんだっけー?」
「明日です。でも明日は直帰して報告書を仕上げたいから、明後日渡しますね。プリーツのスカートとレザーのキャスケットを合わせて、モード系でまとめるといいかも。シャツをメインに際立せたいから、他をダークトーンで抑えれば映えるはず」
「おっけー。くまのアドバイス通りに服と小物揃えておくよ」
父との通話と打って変わり、お互いに「お疲れ様」を言いあい、赤い終了ボタンをタップする。
テディベアは、父により切り裂かれた。
遊びにきたお姉ちゃんが、くまに聞く。「くまさんは?」。適当にクリーニングに出しているとか、妹にとられてしまったとか、嘘をつけばよかったのに。本当のことを告げてしまう。お姉ちゃんの情緒の薄い目が、はっきりわかる悲しみを湛えた。くまの手を握る。
「また、買ってあげる。だから泣かないで」
以来くまは父が頭ごなしに語る「男らしさ」を体現しようと、テレビの俳優を参考にモノクロの衣服を纏い無骨なアクセサリーを装備した。仮面ライダーのレッドを真似て話し口調や言葉遣いを乱雑にし、ぬかりなく仕草も荒っぽく振る舞う。
しかし、うさぎに再会し、たがが外れた。
窓の外、まんまるに太った月が頂点に登っている。そろそろ寝なければ。明日はツルハと少女に、豪勢な朝食を用意する予定だ。
全体重をかけていた壁から体を起こす。
立ち上がって、顔を俯かせ、足の爪先から確認できる範囲で自分の装いを点検する。
「ぼくは、くまだ」
桃色のワイシャツが証拠だった。
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