遡ること3時間前。
「でっけえ家だな、おい」
依頼主、タキザワの家は、一般的な一軒家5軒分ほどの敷地を有していた。建物は3階建て―――エレベーター付きらしい―――と聞いている。彫刻が施された青銅の門と白い壁、赤い屋根。門から20mほど先にある家までの小道に、手入れが行き届いた花壇と木々が並んでいる。それらは目隠しの役割も果たしているようだった。完全に閉ざされているわけではないけれど、程よく視界を遮っている。
緑の奥に潜む姿はまるで絵本に描かれる「お屋敷」だ。
ぱっと見、完璧に整備された家だが、門に少し錆があった。きちんと人間が住んでいる痕跡。発見して、ほっとする。とてもいい家だと思った。
「ちょっと、きょろきょろしないでよ。恥ずかしい」
東京都23区内。とりわけここはセレブが集う街として名高い。土地だけでいくらしたのだろう。感嘆し家を見回すとらに、ねこが辛辣に注意する。いつの間にかなにかにつけて小言を言うようになってしまった。これじゃ嫁のもらいてねえぞ、お前。
「お前は何回も来てるだろうけどさ、俺ははじめてなんだよ。つかタキザワさんって、なんの仕事してんの?」
「官僚。中央省庁勤務」
「へえ、お偉いさんじゃん」
大層な仕事に就いているんだから、警察も協力してくれそうなものなのに。世の中は弱い者に優しいと見せかけて、実情は強い者の奴隷に等しいととらは思っている。もちろん、ここでいう「強い者」は権力者だ。
とらが言わんとすることを読み取ったねこが、ますます辛辣にため息を吐いた。目を細めてじっとりととらを見つめる。出来の悪い我が子を諭す母親のようだ。
まあ、とらの―――ねこのでもあるけど―――母は肝っ玉母ちゃんなので、ねこよりもだいぶん、容赦がないけれど。
「なるべく世間に知られたくないことがあるんでしょ。察しなさいよ、それくらい」
はあ、なんでとら兄と仕事しなきゃいけないのよ。
ねこは声が大きい。ひとり言めいているが、ひとり言になっていない。
忠告しようとしたが、ねこがチャイムを押したので出鼻をくじかれた。軽やかな「ピンポーン」、多分、実家や事務所とそう変わらない音なはずだが、やけに澄んで聞こえる。
音響が止んでも、美しい小道の奥に佇む家からは、誰も出てこない。
「どうしたんだろう」
「時間、間違えたんじゃねえの?」
「まさか、とら兄じゃあるまいし。ほら、ちゃんと書いてある。9:00〜タキザワ様って」
ねこが示したスマホの画面は、ぞうからのリマインドメールだった。あの几帳面で正確なぞうが間違えるはずがない。とらは納得する。
「とら兄さあ……」
ねこが何事かを言いかけたときだった。
「お待たせしましたぁ! どうぞ、お入りください」
アキヨじゃない、溌剌としているが老いた声が飛んでくる。
木と木の合間、僅かに覗える家から、立派な扉を重そうに押し開ける老女が顔を出した。急いで出てくれたのだろう。つっかけをつま先に引っ掛けている。少し腰が曲がっているが、声を張り上げてとらたちに手を振る動きはしゃくしゃくとしていた。こんにちはぁー! と挨拶をしてくれる。
「どうされましたかぁー? 遠慮しないで、どうぞどうぞ。入ってくださーい!」
そうしたいのはやまやまだが、門の鍵を開けてくれないと辿り着けない。
突然現れた老女の勢いに気圧されたとらは、鍵を開けてほしいと頼む。老女がああっ! と叫んだ。
「いやだわもう、私ったら。すいませんねえ。鍵がかかってるの、忘れてました。いやだわ、本当に。ごめんなさいね、ボケたババァで。今開けますから」
つっかけのサイズが大きいらしい。足をほとんど浮かせず、引きずるような歩き方でこちらに向かおうとする。転んでもおかしくなさそうだった。危なっかしい。
「サクラさん、僕が開けますよ」
いっそ、門、飛び越えようかな。
老女に提案しようとしたとらは、本日2度目のデジャヴに―――それだけではなかったが、ともかく思考を止めた。
大きな男だった。
遠目からでも、男の体がとても大きいことが、よくわかる。
とらとねこは互いに素早く視線を交わした。
革靴を履いてから、外見に似つかわしくない丁寧さで玄関を閉め、門に近づいてくる男。歩幅が広い。あっという間にとらとねこの前に立った。
「はじめまして。株式会社植物園の花蘇芳花蘇芳です。今日はよろしく」
地を這うように低い声音だった。
とらは男性の平均身長以下なので、大抵の人物は自分より背丈が高い。しかし、花蘇芳は抜きん出ている。
どこのアスリートだよ、と突っ込みたくなる盛り上がった肩の筋肉。胸板と太ももが鍛え上げられているせいか、スーツの布が膨らみに耐えるようにぴんっと張っている。とんでもなく屈強な外見だった。とらとねこは呆然とする。
この男ひとりで、護衛、充分じゃね?
通された客間は家の外観どおり、とてもいい空間だった。
モデルルームのような静謐さと生活感。ミスマッチなふたつが調和を保ちつつ混合している。その正体は、うさぎが好むだろうアンティーク調の家具の上に並ぶ、数々の家族写真だ。とらはとある1枚に、とても驚く。
金色のフォトフレームの中、双子やアキヨが満面の笑みで各々ポーズを取っている。そして、なんとあの仏頂面ばかりのトシキまでもがそうしていた。気取った様子が欠片もない、鼻の付け根に皺を作ったくしゃくしゃな笑顔。
本当にこのときが楽しかったのだろう。
それがよく伝わる写真だった。
その横に、部屋の雰囲気にそぐわないシーサーがちょこんと置かれている。家族写真の背景は、嘘のように澄み渡った海と、それに連なる空。美しい青のグラデーション。
とらの視線の先に気がついた老女が教えてくれる。
「去年、家族で沖縄に行ったときの写真です。私が撮ったんですよ。みんな、いい笑顔でしょう」
「トシキさんがすげえ笑ってるからびっくりしました。俺たちの前では―――」
「ちょっととら兄! すいません、違うんです。あの、依頼に来ていただいた際はご主人、緊張されていたみたいで。この写真、素敵ですね」
「ありがとうございます。私、ここで家政婦をしているサクラです。ご挨拶遅れてごめんなさいね。今日はお若い方がたくさん来てくれるっていうから、ババァ、はりきってお昼ご飯をたくさん用意しちゃいました。楽しみにしていてくださいね。あ、とうもろこしは好きですか? 若い方の好みがわからなくって。坊っちゃんとお嬢さんは好きなんですけど、今時のねえ、若い方は食べないかしら? とうもろこし」
黙っていると永遠に喋っていそうだ。
「と、とうもろこし好きっす! なあ、ねこ」
「はい、大好きです! でも、あんまり無理してはりきらないでください。あたしたち、食べ過ぎて眠くなったら大変ですから」
「あら、それもそうねえ。じゃ、食べきれなかったらタッパーに詰めますから。持って帰ってください」
サクラが中央の円卓を指し示す。
「今、お茶を用意しますね。なにがいいですか? 今日は暑いから、ジュースとか冷たいコーヒーとか、なんでもありますよ」
「コーヒーください。ふたりとも」
「わかりました。すぐ持ってきますから、座っててください。花蘇芳さんはどうしますか? あ、もう夏だから、昨日麦茶を作ったんですよ。あとハーブティーもあります。ハナズオウ? のハーブじゃないけど、ローズとかカモミールとか」
「麦茶をいただけますか? ―――動物園さん、簡単に打ち合わせをしましょう」
さりげなくサクラの留めないお喋りに静止をかけ、とらたちをソファに誘導する。目算30代半ば、大人の対応を見せつけられ歯がゆい。サクラの丸い背中が客間を出たことを確認し、座り込むようにソファに腰を下ろす。
「よく喋るババァだな……」
またねこに怒られるかと予想したが、外れた。さすがに言葉にしなかったが同意している。
「改めまして、私、花蘇芳と申します。お会いできて光栄です」
「どの口が言ってんの」
誤解しないでいただきたい。これはねこの発言だ。
「なんのことでしょう」
「しらばっくれないでください。こちらもタキザワ様から報酬を頂いている以上、依頼遂行中はおたくと協力しますが、終わったら話は別です。洗いざらい吐いてもらうから」
花蘇芳が困ったな、と小首を傾げる。小馬鹿にした仕草だった。ねこが怒りのボルゲージを加速させた。棘を孕んだ声で唸る。
「ふざけないでよ」
とらも、言いたいことはたくさんあった。衝動のまま、問い詰めたり、怒鳴り散らしたりしてしまいたい。花蘇芳のとらたちを相手にする気がない茶化した態度。とぼけ通すつもりか。奥歯を噛み締める。
円卓の下で、ねこの手を握った。最後に手を繋いだのは遥か昔だ。当然、手は大人になっていた。それが今、震えている。余裕綽々な花蘇芳を前に、理性を保とうと自分の感情に耐えている。
ねこだけを戦わせるつもりは端からない。
「お前ら、俺たちを敵に回したんだから、覚悟しとけよ」
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