13時。
1秒の遅れもなくうさぎのパパであり今月貴重な依頼主、イノウエがやって来た。玄関の正面に仮眠室と同じくパーテーションで仕切り作った客間がある。ぞうがソファの上座に通すとイノウエは「ありがとう」と控えめに笑った。見た目はうさぎから聞いていた「小太りで歯が真っ白なおっさん」だが、ワイシャツを1番上のボタンまで閉めているところや薄い後頭部を悪あがきせず晒しているところに清潔感がある。
「お茶を用意しますね。温かいものと冷たいもの、どちらがよろしいですか」
「じゃあ冷たいのを頂こうかな」
「今日暑いですものね。すぐに担当のいぬが参りますのでお待ちください」
「ああ、ちょっと」
イノウエが声を顰める。
「社長さんはいないのかな」
「はい。うさぎは急な用事で出ております。イノウエ様に挨拶ができず申し訳ないと言っていました」
眉を潜めながらぞうは数十分前を回想する。まさか社長が「2日酔いつらーい。オリスパ行ってくる」とマッサージへ出かけたと馬鹿正直に言えるわけがない。
「いないならいいんだ。いや、いないほうが話しやすい」
俯くイノウエの表情は暗く固い。ぞうは台所に下がりコップに麦茶を注いだ。いぬが寄ってくる。
「どうですか、イノウエ様」
「少なくともいい人そうよ。常識的で」
「ならよかった。あの社長のパトロンってどんな人なのかなって、私ひやひやしてて」
偏見はやめなさい。喉元まで出たが胃に戻す。なぜならぞうへのブーメランになるからだ。
「イノウエ様が待ってるわ。よろしくね」
コップを渡す。受け取ったいぬは新入社員らしい元気な返事をして、戸棚からストローを見つけコップに差しイノウエが待つ客間へ向かった。
一般的な企業であれば新入社員に試用期間や研修期間を3ヶ月間ほど設けるのだろう。しかし社長がうさぎである株式会社動物園は研修期間が3日間のみ。しかもその担当がうさぎだから、新入社員は社長が社長出勤をしたり寝坊をしたりする現状を初日から突きつけられる。
ぞうからの評価が低い社長だが、1度だけまともな発言をしたことがある。まだ記憶に新しい、いぬが研修を受けたときだ。
「客と接するときに、いちばん大切なことを述べよ」
もちろん寝坊をしたうさぎに代わり、ぞうはいぬに必要書類の記入方法を教えていた。初出社に緊張しているいぬを丸1時間待たせたうさぎは伊達眼鏡をかけ登場し、ぞうを本気で呆れさせた。
「社長、挨拶くらいしたらどうですか」
「面接でさんざんしたもん。ねえいぬ、私の質問がわかるかね?」
シャーロックフォームズを真似ているらしい口調で問ううさぎ。いぬは「はい!」と返事をし、敬礼しそうな勢いで立ち上がった。
「まずはお客様のご依頼内容を伺い、次に任務を遂行させるのに必要な情報をお客様の立場に寄り添いながら的確に聞き出すことです!」
「はいざんねーん」
うさぎが胸の前で両手を交差させる。
「情報は幻。余計なことをいかに耳に入れないか。–––すぐにわかるよ。もしもわからなかったら……そうだなあ。あはは」
いぬとイノウエは時折談笑をしながら依頼の方向性を定めていた。聞き耳を立てていた限りでは2日後の月曜日から1週間、イノウエの妻の身辺調査をするらしい。
「1週間って短いっすね」
ぞうと並んで聞き耳をたてていたとらが呟く。
「既にほぼ黒と断定してるんじゃない。ほら、奥様の行動範囲とか、不倫相手とか、だいたい把握してるみたいだし」
「なるほど。あの旦那さん愛人囲っちゃってるんだから、奥さんの不倫がわかったところで両成敗だろうに」
イノウエの帰り際、ぞうはいぬと共にエレベーターまで見送りに立った。イノウエはぞうに会釈し、いぬに疲れた表情を向ける。
「情けない話ですが、本当なら妻の不貞を暴きたくないんです。ですが娘が勘付いておりまして。多感な年頃ですし来年は大学受験を控えています。あやふやなまま、娘を誤魔化し続けるだなんて……」
「奥様についてはこれから私が責任を持って調査し、毎晩お約束の時間に報告致します。結果はまだわかりませんから。気を落とさないでください」
「はい、すいません。娘と同じような歳の子に励まされるとは、弱ったもんだ」
エレベーターに乗ったイノウエは、扉が閉まる最後の瞬間まで深く頭を下げていた。いぬが下唇を僅かに噛む。良くも悪くも感受性が鋭いのだ。ぞうは労いの意を込め、いぬの肩を3回叩いた。
「私だめですね。すぐお客様に同情しちゃう」
「だめじゃないわよ。いぬが素直でいい子ってことなんだから」
「研修で社長が言っていたこと、覚えてますか?」
ぞうは頷いた。労働環境におき最もストレスをもたらすうさぎの教訓は認めたくないが理に適っている。いぬにデスクの引き出しに隠し持っているリンツのチョコレートをあげようと決めた。ただし、とらに見つかるとうるさいのでこっそりと。
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