サクラが飲み物を運んで戻ってきたことにより、動物園と植物園の諍いは一旦、中断した。何事もなかったかのように打ち合わせを開始する。しかしねこは、とら兄が気になり、内容のほとんどが右耳から入り左耳からすり抜けていった。どうせたいした作戦じゃない、という気持ちのせいでもある。
とら兄は、キレていた。
平坦に花蘇芳に宣言する、やけに感情がなだらかな、いっそ穏やかに思える声。
刺激される記憶があった。
ねこととら兄が、小学生の1年か2年―――ちょうど、ソラとウミと同じくらいの歳の頃。
小学校で、ブランコの競争が流行っていた。単純な遊びだ。どちらがより高く、ブランコを漕げるか。中にはパフォーマンスとして、フライパン返し―――ブランコが高く上がった瞬間、重力を操り自らの体をがくんと上下させる技をする子もいた。
ねこはとら兄といっしょに、格闘家の父が経営するジムでボクシングを習っていた。父はねこに対しては護身術程度の習得しか求めていなかったが、とら兄は違った。とら兄は、男で、息子。しかも、長男。父の期待はすべてとら兄に注がれていて、プレッシャーになりえる厳しい練習を、とら兄は毎日、弱音を吐かずこなしていた。
ねこにブランコでの対決を申し込んだのは、同じジムに通うケンタくんだった。
ケンタくんは、ふくふくと、まんぼうみたいに太った男の子で、だけど動けるデブだった。勉強は破滅的にできないけど、運動神経が抜群。小学生時代のスクールカーストは、運動神経によって左右されるといっても過言でない。ケンタくんは所謂ガキ大将だった。決して女子にモテるタイプではないが、男子からの人望が厚いし、おもしろいことをたくさん言うし、だからクラスの人気者。
そんなケンタくんが、とら兄の悪口を言った。
「あいつがレスリング強いのなんて、オヤノナナリカリじゃん」
多分、ケンタくんは意味を知らないで、ただニュアンス的に、とら兄を貶める言葉だと察して、言ったのだろう。そういえば、ケンタくんのお母さんは試合に現れてはメガホン片手に―――時には空いている左手で旗を振り息子を応援し、自分が一所懸命励ました息子が負けたとなると、大袈裟にがっかりして、しょんぼりしながらもちゃっかり対戦相手を詰る、有名なうるさ型おばさんだった。この間の試合でとら兄はケンタくんを負かしたばかりで、ああ、だからかと思いつく。あのお母さんなら言いそうだ。
しかしボロ負けした悔しさからと理由は理解できても、冷静でいられるほどねこは大人しい女の子ではなかった。だって、とら兄は努力をしている。毎日毎日、パパにしごかれて、痣をそこらじゅうに作りながら、めげないで、練習を重ねている。
ねこはケンタくんに詰め寄った。食べすぎの代償な、まんまるお腹を睨みつける。ぷす、と、針を指したら風船みたいにぱんっと、破裂しそうな腹部だ。こんなやつにとら兄を愚弄されたくない。
「強くなりたいなら、その腹、どーにかしたら?」
もちろんその後喧嘩になった。わあわあ言葉の応酬を重ねる。負けるわけにはいかなかった。あー言えばこう言うねこに、ポギャブラリーが尽きたケンタくんが、苦し紛れに提案する。ブランコをオレよりも高く漕げたら、もう二度と、あいつの悪口は言わねえよ。
とら兄の屈辱を晴らすべく、ついでに普段から態度がでかすぎるケンタくんを黙らせるべく、ねこはふたつ返事でそれにのった。
ケンタくんには愉快な子分たちがいて、その子分たちがジャッジメントをするという。ねこは承諾した。どう考えても、ねこの倍の体積を有するケンタくんが、ねこに勝てるはずがない。勝負は決まっていると思っていた。これはせめてもの、餞。哀れみから与えた、ハンデ。
ねこは右側、ケンタくんは左側のブランコを使うことにする。はじめは踏み台に左足だけを乗せ、反対の右足で地面を蹴った。ある程度の揺れを確保できたら、右足を踏み台に戻す。振り幅を大きくするために、しゃがむ姿勢から、膝を伸ばし立ち上がる。それを何度も繰り返した。
体が外に放り出されるような重圧。それにあがらうと、内蔵に強かな振動を感じる。このスリルがたまらなかった。ねこは重心を前後に変えながら、屈伸を続け、どんどん速度を上げた。ブランコが、大きく、半円形に、弧を描く。天辺まで上がると、よく晴れた空が見えた。雲ひとつない。隣のケンタくんを確認するため、顔だけを横に向けた、そのときだった。
唐突に、ケンタくんが飛んだ。
文字通り、図鑑に載っている、羽をぴんっと伸ばし飛行する鳥みたいに、両腕を広げ、両足を左右に開き、その体制のまま、宙を舞う。
それから、ケンタくんの体の重みが、頭に全集中したことがわかった。真っ逆さまに、頭上を下にして落下していく。たった数秒だった。なのに、ねこの目にはスローモーションに映った。
どしゃっ、卵を床に落としてしまったときのような、音がした。
ねこは息を呑む。
ケンタくんは砂の上に、うつ伏せで放り出された。大の字のまま、起き上がらない。その様子はまるで出来すぎだった。日曜日のお昼にやっている、サスペンスドラマ。コンクリートとか、森の中とか、そういう場所で発見される死体を連想させる。
死体。
子分のひとりが、ケンタくんに近寄った。戸惑いがちに声をかけ、反応がないから、どうしたらいいかわからないらしい。他の子分たちもやって来て、みんな、ケンタくんを見下ろしている。その内のひとりが、ケンタくんの首元に腕を回し、ぐるりと、体をひっくり返した。
まず、ケンタくんを抱きかかえている子分が悲鳴を上げ、その後で、屯していた子分たちが絶叫した。
ケンタくんの顔は、真っ赤だった。
潰れた、トマトみたいに。
さっき、昼ドラの死体みたいだ、と思ったことを思い出す。ねこはこわくなった。ケンタくんは、死んだのかもしれない。
ブランコから降りたくなった。ケンタくんみたいになったらどうしよう。死んだら、どうしよう。さっきまで、自由自在に曲げ伸ばしできていたのに、膝が笑い出す。がくがくと、崩れようとする。立っていることが難しかった。とても、怖かった。
「おい! お前ら!」
校舎から、とら兄の声が鋭く響いた。とら兄の存在を察した瞬間、ねこはとら兄に助けてほしくなって、握りしめていた鎖から、手を離してしまう。すると、ブランコが横に傾いだ。反射的に再び鎖を掴む。規則的に揺れていたブランコが、不安定に、上下のみではなく左右を交えながら、ぶれはじめる。しゃがもうとすると尚更そうなった。とら兄が、ねこの名前を呼びながら走ってくる。後ろに、担任のマダラメ先生の姿もあった。
マダラメ先生が、ケンタくんに駆け寄る。けれどとら兄は真っ直ぐ、ねこに向かってきた。パニックに陥っているねこに何度も何度も言う。
「大丈夫、俺が止めるから。大丈夫だから、絶対に、手を離すな。ほんとうに、大丈夫だから」
とら兄が鎖の、下の方を掴んだ。引っ張って、自分に引き寄せる。ブランコが抵抗を示し、激しくぶれた。ねこはとら兄に言われたとおり、懸命に鎖を握りしめて、踏み台から投げ出されそうになる足を踏ん張る。耐える。視界がぐわんぐわん、焦点が定まらなかった。次第にブランコの勢力が小さくなって、僅かになってから、とら兄がねこを抱きかかえる。力が入らないねこは、全体重をとらに預けてしまった。疲労困憊なとらが受け止めきれず、後ろに倒れる。とら兄が頭を打ったことがわかった。すぐにとら兄の上からどこうとするけれど、とら兄は、ねこを抱きしめたまま離さない。
騒ぎに気づき駆けつけた教頭先生が、とら兄からねこを引き離すまで、そうしていた。
「ばかやろう」
とら兄は、ケンタくんと同じように、顔が真っ赤だった。額が切れている。そこから留めなく流れる血が、とら兄の顔を染めていた。
ひどい混乱に襲われ、言葉が出ないねこに、とら兄が吐き捨てるように言う。
「ばかやろう、なんで危ないことすんだ。怪我したら、どうすんだよ」
とら兄は、怒っていた。
「母ちゃん、言ってただろ。女は傷作っちゃいけないって。だから親父、お前には優しくレスリング教えてんのに、俺だって、お前と組むときは手加減してんのに、なんで、なんで、自分で、危ないことするんだよ」
怪我が痛いはずなのに、怒りでいっぱいなはずなのに、とら兄の声は平らだった。張り詰めた雰囲気がとら兄の心情を表しているが、それと裏腹に、口調は責める気配も、ましてや叱る様子もない。「芸能人の◯◯が結婚したんだって」と、他人のことを語るときのような、感慨のない声。諦めとか、呆れとか。そういう類に近い。
嫌われてしまった、と確信した。
やっとの思いで謝るが、とら兄はやって来た救急車に乗せられ、その中で処置を受けている最中も、ずっと、無関心なトーンでねこに語り続けた。危ないのに。まじで、危ないのに。どうしてだよ。
ひょうきん者ほど、キレたら怖い。
ねこは冷静になろうと努める。研ぎ澄まされているとら兄の怒りが、爆発する気配はまだない。もしもそうなったら、止められるのは片割れである自分だけだと自負している。
「結構ですが、とらさんの方がよろしいのでは? 見回りの最中に敵と対峙した場合、女性だと不利でしょう」
花蘇芳の気遣わしげな視線が、ねこに注がれる。冷やしたばかりの頭が再び加熱をはじめた。堂々と地雷を踏む花蘇芳の無神経をどうやって引きちぎろうか。考えるよりも先に口を開いたねこを、とら兄が制する。
「ねこが適任っすよ。こいつはこの家の間取りをぜんぶ把握しているし、強い。心配御無用」
「はあ……そうですか」
花蘇芳がねこを一瞥する。
サクラがいる手前、こちらの事情を把握される恐れがある言動は控えなければならない。ねこはにっこり、笑顔を作る。腹の中で「ぜってえ許さねえ」と毒づきながら。
「それでは、私たちはソラくんとウミちゃんのところに行きますね。サクラさん、案内していただけますか?」
「もちろんです。ウミちゃん、今度こそとらさんを跪かせるんだーって楽しみにしてるんですよ。あの子、やんちゃで。大変だろうけど、仲良くしてあげてください」
「俺が跪くことはありませんが、仲良くします」
げんなりとしているとら兄がおもしろい。
玄関の警備をする花蘇芳を残し、ねこととら兄は双子の部屋がある3階に向かった。
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