いくら追い払っても、人の煩悩はつきまとって離れないものであるたとえ。(故事ことわざ辞典より)
イノウエの妻が一歩、二歩、いぬににじり寄る。
写真や遠目から見ていたイノウエの妻は、常に笑顔だった。細面を縁取るパーマがかかった髪。おばさんがパーマをかけているのに、なぜサザエさんにならないのだろうと、いぬは不思議だった。
今、いぬの前に立つイノウエの妻の表情。のっぺりとした無表情にいぬは竦みあがる。無表情なのに、弛んだ瞼が覆い被る瞳はいぬを鋭く見据え逃がさない。目は口ほどに物を言うとはこのことか。母と同じ歳くらいの女性に凄まれる経験などはじめてだし、想像したことすらなかった。怖い。
「着いていらっしゃい。–––って、散々着いてきてるのよね」
皮肉に笑われ、ますます怖い。
いぬの脳内にはまずうさぎが浮かび、次にぞうが浮かび、続いてなぜか最近まで彼氏だったユウくんが浮かんだ。ユウくんを脳内から追い払い、社長・うさぎに電話をしようと思いつく。しかしイノウエの妻はいぬをしっかり監視していた。電話は無理だ。ならばいったい、他にどうすれば? どうしよう、どうしよう、どうしよう。いぬの思考は「どうしよう」から抜け出せない。
「あなた、いくつ」
急に尋ねられ、悲鳴に似た声が漏れた。不満だったのだろう。イノウエの妻が不機嫌を隠さず眉間に皺を寄せる。
「ここ、バーなの。未成年を連れて行くわけにはいかないから聞いたのよ。お酒は飲める?」
イノウエの妻が指し示したビルに看板はなく、ただ地下へ続く階段の仄暗さがなんとなく「バー」を連想させた。ちなみにいぬはバーへ行ったことがない。僅かな想像力を総動員した結果、バーとは薄暗くて、壁に沿って聳える棚にたくさんのお酒の瓶が並んでいて、ダンディなおじさまがカウンター席で丸いグラスに注がれたウィスキーをちまちま飲んでいて–––と、実に幼稚なイメージが完成した。
「–––お酒、飲めます」
「そう」
年齢を言わないいぬをイノウエの妻が下から上まで舐めまわすように見る。なにをもって確信を得たのかわからないが、イノウエの妻がヒールをこつこつ響かせながら階段を降りた。いぬもスニーカーをぱたぱたと鳴らしながら2段遅れて後に続く。
ばれないように、小さく、小さく、深呼吸を繰り返した。
ユウくんの浮気を知ってしまったときより高鳴っている心臓に、落ち着けと命じる。どうにかするしかない。どうすればいいか、わからないけど。
いぬの拙い想像通り、店内は照明が絞られており薄暗く、壁一面を占領する棚にはお酒の瓶が数えきれないほど飾られていて、席は居酒屋みたいな卓席ではなく、カウンター席のみ。イノウエの妻がマスターの前に座ったので、いぬはその右隣に腰掛けた。イノウエの妻よりも出入り口に近い場所を確保したかったのだ。
「いつものをちょうだい。あなたはどうする?」
「あの……メニューは?」
「マスター、この子に甘いカクテルを作ってあげて。そうね、この間いただいた、柘榴を使ったカクテルがいいわ」
「かしこまりました」
バーとはメニューがないらしい。恥ずかしくなり俯くいぬに、マスターがナッツとチーズを乗せた平皿を出した。普段のいぬであればインスタ映えを狙い写真をパシャパシャ撮るのだが、いかんせん未だ「どうしよう」の迷路で彷徨っている身。じっとしておく。
それぞれのカクテルが、机を滑り手元へやって来た。
イノウエの妻がグラスを掲げ、一口含む。傾くエメラルドグリーンの液体。
「美味しいわ。マスター」
「ありがとうございます」
「あなたもいただいたら? マスターのカクテルはとても美味しいのよ」
「あ、はい。じゃあ」
おそらく赤ワインを基調としたカクテルだ。それ以外の味は緊張のせいでまともにわからない。
「すごく、美味しいです」
棒読み且つ無難すぎる感想である。
「それは良かった。ありがとうございます」
マスターの笑顔が眩しい。ついカクテルに視線を落としてしまう。赤い液体の中で、柘榴の粒が浮かんでは沈み、沈んでは浮ぶ。もう一口飲んでみた。
「あなた、『いぬ』は本名なの?」
首を振る。イノウエの妻は先程よりも随分落ち着いた声音をしていた。
「急に連れてきてごめんなさいね。ここは私が知っている中で1番落ち着くお店なの。身構えないで、私と話をしてくれるかしら」
身構えないことは難しいが、話す必要があることくらい百も承知だ。頷くと、イノウエの妻が笑う気配がした。
「あなたの依頼主–––私の夫はね、素晴らしい人よ。昼も、夜も」
「は」
真っ当にウブないぬにも、イノウエの妻が言わんとする下卑な意味が伝わる。
「夫は一生懸命仕事をして、私と娘に充分な生活を提供してくれている。私は夫の為に毎日衣食住を整えているのだけれど、彼は週に1度、日曜日にしか家に帰らない。ならば日曜日だけ家を整えればいいのだろうけど違うのよ。もちろん娘がいるからっていう理由もゼロじゃない。でもね、私は私のために、毎日3食彩鮮やかな料理を作って、洗濯をして、掃除をして、生活を綺麗に保っている」
イノウエの妻はいぬにではなく、自分自身を戒めるかのように呟いた。
「夫には、女がいるの。たくさんね」
いぬの脳裏をよぎったのは、当然の如くうさぎだ。
「娘は来年大学生。どこを受験するか決めかねていた矢先、パパとこれ以上暮らしたくないから、ひとり暮らしをはじめたいと言い出したわ。–––気づいていたのね、全部。私は誤魔化せていると過信していた。誤魔化せるはずなんてないのに」
今しがた聞いたイノウエの妻の自白と、1週間前に慰めたイノウエの嘆きと。胸が騒ぐ。
「あなたがなぜこの1週間私を着けていたのか、あなたの社長さんが教えてくださったわ」
「社長が!?」
思わずイノウエの妻を見る。
「あら、やっとこっち向いたわね」
「どういうことですか?」
「その前にもう1杯飲みなさい。マスター、おすすめをちょうだい。2つ」
「かしこまりました」
イノウエの妻が被っていた、無表情の仮面が割れた。穏やかに言う。
「いい社長さんね。うさぎさんは」
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