普段人で賑わうヨーク通りには、泥と血の臭いで溢れていた。屋台は壊れ、品物が路上に散乱している。あちこちで暴動が起き、騎士団とデモを起こしている人間が揉み合い、声を荒らげて争っていた。
「メル様」
呆然とその様子を見つめる僕に、ユーガが声をかけた。
「これが、新王反対派がやったことなんだね」
「えぇ、そうです」
「重傷者は?」
「おります。死人も既に出ております。死人は、騎士団によると集められて一箇所に集められているそうです」
「なら、黙祷を捧げよう」
僕はユーガの後をついて行った。新王反対派の起こしたデモの酷さに、心が傷んだ。これは、僕に向けられた刃だ。僕は、一体どうしたら良いのだ――。
「メル様、こちらになります」
路上に一列になって横たわる男女。その中には幼い子供もいた。
「酷いな」
目を閉じられた人々の顔を見る。痛々しい傷跡を残している者、殴打の跡が見える者。
「すまない、、、!」
命を落とした全ての人々に、僕は謝ることしか出来ない。
僕は、弱い。
深い暗闇が僕の足を掴む。
お前は足りない。王として、力が足りない。
お前は欠けている。人間を支配する力が。
濃い闇が、僕の心を捉えた。
顔を覆う。涙が溢れそうになったが、堪えた。死んだ者は泣きたくても泣けないのだ。僕が泣くことは、死んだ者への侮辱だと思った。
両手を顔から離し、ふと、とある若い女の顔を見た。よく見知った顔が、そこにあった。
「アン?」
よろよろとしながら、彼女に近づいた。目を閉じて横たわる彼女の傍に膝をつき、顔を触った。額に殴打の跡があった。そこから血が流れ、黒ずんで固まっていた。
「アン、嘘だろう?」
肩を揺する。ただ目を閉じているだけだ、気絶しているだけだ、揺すれば起きる――。
起きない。
僕は彼女を抱きしめた。暖かった。ついさっきまで生きていたのだという証があった。
「アン、そんな、アン。起きて、起きて」
だらりと、アンの首が力無く傾く。
抱きしめたまま揺すっても、彼女は起きない。
「商店街を見に行くって、約束、したのに」
涙が出なかった。僕の全身を巡る血が冷えていく。力が全身から抜けていく。頭が真っ白に、何も考えられなくなる。
これは現実か?
現実だ。
アンが力無く、僕の腕に寄りかかる姿。アンは、もう笑わない。アンのチョコレートケーキの味も、二度と、味わえない。彼女と心を通わせることは、もう二度と訪れない。
心が冷えていく。僕の胸の中にあった優しさが、泡になって弾けて消えた。
僕の冷えていた血が、ふつふつと熱くなる。全身が、震えた。今まで、こんなにも全身が震えたことはない。震えた唇で、僕はユーガの名前を呼んだ。
「ユーガ、来い」
「メル様」
「命令だ。このデモを起こした人間、全てを皆殺しにしろ。女も男も、子供も関係ない。一人残らず、全てだ」
憎しみが、胸を、心臓を焼いた。激しい怒りが、涙となって僕の目から零れた。
ユーガは、ただ、黙って頷いた。
許さない。決して。彼女の命を奪った者も、その原因を作り出したもの全て。
――それは、お前が原因だろう?
誰かが囁く。頭の中に響く。
――あの時、アンを家に帰さなければ、死ななかったかもしれない。お前が次期国王でなければ、アンは死ななかったかもしれない。
――お前のせいだ。お前のせいだ。
心が僕を責め立てる。沢山の剣が、僕の心を刺して血を流した。
「僕のせいで。アンは死んだのか?」
僕はすっかり気がおかしくなってしまった。
アンを横抱きにし、逃げるように王宮に戻った。僕の腕の中で横たわるアンを見た王宮の使用人の反応など、どうでも良かった。自室に入り、アンを優しく僕のベッドの上に下ろした。
「アン、ごめんね、アン」
静かに目を閉じるアンの頭を撫でる。
まぶたにかかる髪を払うと、額から流れていた血が、僕の手の指についた。
黒ずんだ血を見つめる。まるで、チョコレートのようだった。僕はそれを舐めた。
なんの味もしなかった。
悲しくなった。叫びたかった。
僕はもうアンに何もしてあげられない――。
――出来るだろう。
声が、頭の中に響いた。
――味覚がない、お前だからこそ出来る、最高の愛し方が。
血を舐めて、唾液で濡れた指を見つめた。
僕に、悪魔の思いつきが生まれた。
そうだ。出来るではないか。
味覚がない僕だからこそ出来る、死んだアンを愛する方法を。味覚があれば、気が引けて出来ないかもしれないが、チョコレート以外は何を食べても水のようにしか感じない僕なら、なにも恐れることはない。
僕の恋は彼女が死んだから終わるのではない、むしろ始まりなのだ。
思い立った僕は、再びアンを抱いて、厨房へ行った。
そこには一人の男のシェフがいた。
アンを抱く僕を、シェフは怪訝そうに見つめた。
「メル様、どうなさったのですか」
僕は笑った。
「シェフにお願いしたいんだ。僕の腕の中にいる彼女の肉を一切れと、血をワイングラスに入れてくれ」
シェフは目を大きくさせた。
「この娘の血と肉ですか!?」
「あぁ、そうだ」
「まさかこの娘は、死んでいるのですか!」
シェフはアンを食い入るように見つめてから、全身を震わせた。
「お考え直し下さい、王子。人肉を食べることは、悪魔の所業! ましてや死者の肉を食べるなど、その娘に対しての冒涜です!」
「何を言っているの? 彼女を僕の体に取り入れれば、僕と彼女は一つになれる。彼女は僕の中で生きていることになる。冒涜にはならない」
「メル様、あなたの考えが私は分からない! 私にはそのような恐ろしいことに加担出来ません!」
「なら、ここで死ねよ」
シェフは、ひっと喉を鳴らした。
「ただ殺すだけだと思う? その足をもぎ取って、手の指一本一本折って、痛みに悶えさせてから、お前を殺す」
つらつらと、脅しの言葉が口から飛び出る。
これは本当に僕が言っているのか?
まるで傍観者のような気持ちになった。
妙に気持ちが高ぶる。
シェフは、震えながら言った。
「か、かしこまりました。その娘を調理したら、あなた様の部屋にお運び致します」
「あぁ、頼んだよ」
僕は、にっこりと微笑んだ。
そして自室に戻り、しばらくすると自室の外からシェフの声が聞こえた。扉を開けると、シェフの姿が見えた。その手には一枚の皿とワイングラスがあった。
「ありがとう」
僕はシェフから、皿とグラスを受け取った。フォークは断った。手づかみで良いのだ、アンの肉の感触を忘れないようにする為に。
だらしなくベッドの上に皿を置く。
グラスはベッドの上に置けないので、僕は一気に飲み干すことにした。
どす黒い液体から、つん、とした臭いがした。
ワイングラスに触れると、そのグラスは生暖かくて、思わず頬ずりした。
僕はグラスに口をつけた。どろりとした、温かい無味の液体が、僕の喉の奥に張り付く。まるで僕の体の底へ落ちるのを拒否するかのように。しかし、飲み込んだ。
飲み終わり、グラスを床に転がす。
次に、肉だ。てらてらと艶めかしく輝く、赤い肉の塊があった。一口で食べられるような大きさだった。すん、と、臭いを嗅いでみた。獣のような臭いがした。
それを摘むと、ぷるぷるとした感触が指に伝わって愛らしかった。口に入れ、噛む。少し筋があって、やや、固かった。
これがアンだと思うと、途端に愛しさが湧き出て、唾液が溢れてくる。
僕は何度か肉を強く噛んで、飲み込んだ。
あぁ、これでいい。
彼女を、僕の体の中に迎えた。
彼女を取り入れたこの体は、もう僕だけの体ではなくなった。この体は僕であり、アンでもあるのだ。
僕に歯向かうものは、アンに歯向かうものと同じ。僕を傷つけるものは、アンを傷つけるものと同じだ。
力が湧いてくる。
アンがいつも傍にいてくれると思うと、恐ろしいものは何もない。
僕は、僕自身の体を優しく抱きしめた。
「アン。これから一緒に、色々な世界を見よう。アン、君を傷つける人間はもう、誰一人として許さない。だから、安心して」
喉の奥から、チョコレートの甘い味が強く香った気がした。
――そして。戴冠式を迎えた。
僕の頭の上に、煌めく黄金の王の冠が、父から授けられた。
僕は王になった。
アンの遺体は灰にして、小瓶に詰め、それを懐に忍ばせている。
バルコニーに出て、僕は手を振って、堂々と笑って見せた。バルコニーの下には大勢の人間が集まっていた。
さぁ。この国民をどうしてやろうか。
アンの命を奪う原因を作った人間が、まだこの中にいるかもしれない。
許さない、決して。
怒りを抑えながら、僕は笑う。
笑う。
笑う。
僕の時代が、始まる。
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