アンがいる部屋に入った。ベッドで横たわる彼女を見て、僕はアンと同じ目線になるように屈んだ。
「アン。君の家に帰っていいよ」
「え?」
閉じられていたアンの目が開かれる。
「僕は、君がここで痩せ衰えていくことを望まない。君は元いた場所に帰って、笑っていて欲しいんだ」
すると、アンの目が大きく開かれた。かさかさとした、薄紫色の唇が小刻みに震えた。
「いいの? メル」
僕は深く頷いた。
「うん。僕は君を縛りたいわけじゃない。君に、幸せになって欲しいんだ」
アンの目から大粒の涙が零れた。
「ごめんなさい、ありがとう、メル」
鼻を真っ赤にさせ、アンは両手で顔を覆った。
僕はアンの頭を優しく撫でた。涙を流すアンがとても愛おしく思えた。彼女が王宮で幸せになれないのであれば、別の所で幸せになってほしい。例え、僕の傍にアンがいなくても。
僕は部屋を出た。深い満足感が、胸の中に広がっていた。すると、壁に寄りかかっていたロフィと目が合った。
「いいの? 兄さん」
怪訝そうに言うロフィに、僕は静かに笑った。
「彼女の最善を願うこと。これが、愛だろう」
ロフィは小馬鹿にしたように、口を開いた。
「ふぅん、そう。優しい次期国王だね」
「優しさが無ければ、人を治めることは出来ないだろう」
「そうかな。優しさは人を潰すよ。優しさなんて邪魔なもの、捨てれば良いんだ」
吐き捨てるように言うロフィが、憐れに思えた。
「優しさは、捨てちゃ駄目だ。幸せになりたいのなら」
そう。優しさは捨ててはいけないのだ、と思いつつも、僕の良心は傷んだ。アンを助けに人身売買の商人達のところへ行った時。
アン以外の人間も売られていた。その人々を助ける金は、僕は持っていた。助けようと思えば、助けられたのだ。
でも、僕はアンを優先した。一刻も早く、アンを王宮に連れていきたい、この場所から離れたいという欲に負けた。
僕は、弱い。
翌日、アンをヨーク通りまで女の召使いに送らせた。アンの容態が良くなるまで、アンの面倒を見てやってほしい、アンの容態が良くなったら、王宮に戻ってこいと召使いに命令した。
一週間ほど経った頃に、召使いが王宮に帰ってきた。アンの容態は、すっかり良くなったという報告を持ってきた。僕は安心した。
そして、再びアンに会いに行った。
相変わらずヨーク通りは人が多い。
人の波をかき分け、アンの店に到着した。
「アン。こんにちは。元気にしてる?」
アンは僕を見て、ぱっと嬉しそうに笑った。
「メル、こんにちは」
頬が赤く、すっかり健康的な体つきになっている。笑顔も明るく、毒が抜けたように、すっきりとしていた。
「良かった、元気になったみたいだね」
アンは、にっこりと微笑んだ。
「本当にメルには、感謝してもし尽くせないわ。本当にありがとう。ユーリにも会ったけど、殴って清々したわ!」
力こぶを作って見せるアンに、僕はおかしくて吹き出した。
「ふふ、そっか」
「本当にありがとうメル。あなたには、お世話になりっぱなしだわ」
「僕を好きになっても良いんだよ?」
茶目っ気たっぷりに言うと、アンは恥ずかしそうに目を伏せてはにかんだ。
「ふふ。私なんかが、メルを好きになっても良いのかしら」
アンは屋台に置かれたチョコレートケーキを包みに入れて、僕に差し出した。
「チョコレートケーキよ。メル、あなたが来てくれた時は、好きなだけチョコレートケーキをあげるわ」
「ありがとう、アン」
大切に包みを受け取ると、背後から騒ぎの声が聞こえた。振り返ると「反対」と書かれた看板を首から下げる男女達が、ヨーク通りの中心を歩き「新王は消えろ!」と叫んで歩いていた。
「あれは?」
アンは眉間にしわを寄せて、言った。
「新王反対派のデモ集団よ。気にしちゃ駄目よメル」
デモ集団を横目に見てから、僕は考えた。僕は、三日後に戴冠式を控えている。僕の心に正直になると、不安でいっぱいだった。
僕が王になるには、何かが欠けていると感じていた。その何かは分からなかった。
不安な気持ちを振り払い、アンに笑いかける。
「アン。今度時間が合う時に、ここの商店街を見て回るのは、どうかな」
アンは目を細めて、笑った。光のような笑顔だった。
「えぇ、喜んで」
僕の心は弾んだ。彼女と離れていても、アンと心は繋がっている。アンに僕の存在を受け入れてもらっている。それが、たまらなく幸せで、何故か不安だった。
人の心は変わりやすい。今は僕を受け入れてくれても、次に会った時には否定されるかもしれない。決定的な証が欲しい。
しかし、証とはなんだろう?
僕は考え込みながら、王宮の自室のベッドの上に座っていた。ふと、窓を見た。薄暗くなっている空に、明るい月がぼんやりと浮かんでいた。夜が近くなっている。
綺麗だなと思っていると、こんこん、と扉が叩かれ、ユーガが部屋の中に入ってきた。
「失礼します、メル様。新王反対派のデモが拡大しているようです。場所はヨーク通り。騎士団をその場所へやって、鎮圧させます」
「ヨーク通りだって?」
僕は寝巻きを素早く脱ぎ、簡素な服に着替えた。
「メル様、着替えをなされて、もしや一緒に行こうと考えておられるのですか?」
壁に立てかけていた剣を手に取る。
「僕も行こう」
「危険です、メル様!」
ユーガは吠えた。しかし、僕は無視した。
しっかりとユーガの目を見つめて、はっきりと言った。
「黙ってここにいろって言うの? 次期国王が安全な所にいてどうするんだ。実際にこの目で見て、状況を判断する」
そして僕は部屋を飛び出した。
アン。
ふと、アンの笑顔が頭をよぎった。アンは大丈夫だろうか。胸騒ぎが、僕の心を掴んだ。
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