僕の舌には、悪魔がとり憑いている。
試しに口の中に、人差し指を入れてみた。なんの味も、僕の舌は教えてくれなかった。
ただ、ぶよぶよとした感覚が、舌の上にあるだけだった。
軽く自分の指を噛んでみる。柔らかいだけだった。人間の指は、塩っぱいという感覚が、全く伝わらなかった。
「メル王子。子供のように指を舐めて、なにをしていらっしゃるのですか」
口うるさい側近の男、ユーガが、眉間に皺を寄せた。がっしりとした体格に、ぴっちりとした黒い服が良く似合う男に見下ろされ、食卓についている僕は、あまりいい気分がしなかった。
「味がするかなって、思ったんだよ」
そういうと、ユーガは言葉を詰まらせた。分かりやすい男だ。
僕は生まれた時から、味覚が備わっていなかった。医者に言わせると、これは未知の難病だそうだ。どうやって治せば良いのか、医療がまだ発達していないため、分からないのだという。
十八になった今も、僕は味のない暗闇の世界で生きている。
「今日の朝もホットチョコレートをお出ししますから。メル王子、頑張って朝食を召し上がって下さいね。ただいま、お食事をお持ちしますから」
「ホットチョコレートか」
味覚がない僕に、唯一、救いの手を差し伸べてくれるもの。
それはチョコレートだった。
何故か、チョコレートの味だけは判断できる。
口に含むと、とろりとした幸せな味が、ゆっくりと舌の上で溶けて、品の良い甘さが口いっぱいに広がる。ぞくぞくと天にも昇るような心地にさせてくれるチョコレートが、僕の救世主であり、生きる楽しみの一つでもあった。
チョコレートに思いを馳せていると、ふと、自分の細い腕が目に入った。骨のような腕だった。とても王族の男とは思えないほど、貧相で、惨めな細さだった。
あとひと月もすれば、還暦を迎えた父の王位を継ぐ戴冠式が行われるのだが、僕は不安で仕方がなかった。
僕のこの貧弱な体つきを見て、国民は僕が王だと認めてくれるだろうか。
もちろん毎日、食事は摂っている。だが味がしないということは、知らず知らずのうちに食欲を削っていくものだった。木くずを食べているような、食感がする水を食べているような毎日に、当然食欲は湧かず、自然と食べる量は減っていく。
だから僕の体は、普通の十八歳の男と比べると、やせっぽちの犬のようだった。王というには、あまりにも細すぎる病人のような体に、僕はいずれ早死にするのではないかという恐怖で、ぞっとした。
そんなことを考えている僕のことなどお構い無しに、ユーガは、僕の目の前に次々と皿を置いていく。
「さぁどうぞ。今日は焼きたてのトーストに、採れたて新鮮野菜のサラダ、卵と鶏肉の和え物、山菜のスープです」
「ホットチョコレートは?」
「それは最後にお出しします」
「ユーガ。朝食の量が多い。僕はトーストだけでも充分だ」
「しっかり食べて頂かねば、お体に障ります。どうか食べてください」
懇願する声に、渋々、スープの器を手に取った。
湯気が立ち上っている、琥珀色のスープ。匂いも良い。澄んだ美しいスープの底に、口の中に入れるのに程よい大きさに切られた、緑色の山菜が溜まっていた。
スプーンでスープをすくい、僅かな希望を込めながら、飲み込んだ。
温かいお湯だった。
匂いはするのに、味は少しも感じられない。トーストを手に取り、卵と鶏肉の和え物を、こんがりと焼けたトーストの上にのせた。ザクザク、ふわふわとした、トーストの食感は面白い。だが、後悔した。和え物の、べちょべちょとした、まるで水に浸したような粘土を食べているような感覚に、思わず、胃が震え、吐き気が込み上げる。
必死に飲み込み、サラダを口に運ぶも、硬い水を噛んでいるかのようだった。だが、和え物よりは遥かにましだった。
「ユーガ、終わったぞ」
なんとか今日の朝も、苦痛の時間を終わらせることが出来た。綺麗になった皿を見ると、ユーガは、にっこりと微笑んだ。
「では、ホットチョコレートをどうぞ」
差し出された白いマグカップをひったくるように受け取ると、ふわりとしたチョコレートの匂いが、鼻の中を満たした。
滑らかな焦げ茶色の液体を見て、じわりと涎が出てくる。コップに口をつけて、思い切り飲み込んだ。
歯に、舌に、喉の奥に流れ込んでくる、ドロっとしたチョコレートの甘い味が、どうしようもなく愛おしい。
夢中になって飲んでいると、すっかりホットチョコレートは僕の胃の中に吸い込まれてしまった。
寂しく思いながら、中身のないマグカップを見つめると、ユーガは僕の手の中にあるマグカップを取った。
「メル王子、お疲れ様でした。さて、今日の予定ですが、剣術と馬術の練習をして頂いた後に、下町の様子を見に行きましょう」
「下町?」
「えぇ。社会見学も立派な経験の一つですから。それに、あとひと月もすれば、メル王子は王になられます。王になれば、そう簡単には外出することが出来なくなるでしょう。今のうちに外の世界を楽しむのも一興かと」
ユーガは、目を細めて微笑んだ。
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