王宮に連れていくと、ユーガに酷く叱られた。なぜこんなにも遅く、しかも女性を連れて帰ってきたのですか、と厳しい表情で、僕に詰め寄った。理由を説明すると、怯えているアンをちらりと見てから、深いため息を吐いた。
「彼女が寝泊まり出来る部屋を用意します。こちらへ」
ユーガの後について行くと、使用人達が使う個室部屋の前に到着した。
「この部屋が空いていますから、ここでお休みになってください」
「入ろう、アン」
「お待ちください、なぜメル様も入ろうとなされるのですか」
「こんな状況でアンを一人に出来るわけがないだろう。気になるなら、ユーガ、お前は部屋の外で待っていろ」
「はぁ。かしこまりました」
僕はアンの手を引いて、部屋の中に入った。狭い部屋だったが、清潔で簡素な部屋だった。一人分が眠れる大きさのベッドの上に座り、アンも僕の隣に座るように誘導した。
アンは、おずおずと部屋を見回してから、僕を見つめた。
「メルは、王子様だったのね」
僕は笑った。
「そうだよ、驚いた?」
アンは僕の手を離した。
「王子様なのに、私ったら馴れ馴れしかったわね。敬語もろくに使わないで、ごめんなさい」
「気にしないで、アン。いつも通りに接して欲しいな」
「いつも通りなんて出来ないわ。私はこれからどうすればいいのかしら。私はあなたに買われた。私はなにをすればいいのかしら」
彼女を買った。甘いしびれが背中を走った。酔う甘さを含んだ言葉に、僕は思わず笑いそうになったが、堪えて真顔になった。
「そうだね」
何をすればいいか。アンがここに居てくれれば、僕は充分だと思ったが、なにか仕事を与えた方が良いかもしれない。考えていると、はっと、一つの良い思いつきが浮かんだ。
「アン、君は僕の専属の菓子職人になって欲しいんだけど、駄目かな」
「菓子職人?」
「そう。チョコレートケーキを、僕に作って欲しいな」
アンは、操り人形が頷くように、機械的に頷いた。
「メルが望むなら、いくらでも作るわ」
「ありがとう、アン。さぁ、今日はここでゆっくり休んで」
アンは不安げな声で、立ち上がろうとした僕を引き止めた。
「待って、メル。私にはここまでしてもらう理由がないわ。こんな立派なお部屋を借りて、申し訳ないわ」
僕はアンと向き合った。頬が熱くなる。僕はアンの顔を見ずに、口を開いた。
「あるよ。だって僕は、君のことが好きだから」
「好き?」
アンの抑揚のない声が聞こえた。僕は顔を上げて、再びアンの片手を取って握りしめた。
「そう。初めて会って、君のチョコレートケーキを食べた時から。僕は一瞬で心を奪われた。僕は、君が好きだ」
「そう、なの」
アンは目を伏せた。アンを握る僕の手の上に、握っていないアンの手がのせられた。拒絶の手だった。
「ごめんなさい、メル。私は今、色んな感情がごちゃ混ぜになって、メルになんて返せば良いか分からないの」
アンの手を、名残惜しく思いながら離す。
「いいよ。返さなくて。ただ、知って欲しかったんだ。本当は、言うつもりは無かったけど」
僕は立ち上がり、アンの頭を優しく撫でた。
「アン、ゆっくり休んで。また、落ち着いた時に話そう。お休み」
立ち上がり、部屋の外に出る。部屋の外で待っていたユーガと目が合った。そして、ユーガの隣に立っていたロフィとも、目が合った。ロフィは、にやっと目を細めて笑った。
「本当に女の子を連れてくるなんて、やるねぇ、兄さん」
「うるさい、ロフィ。たまたま、そういう状況になっただけだ」
「このまま、うまく行くといいねぇ」
「ユーガ、ロフィは無視して行くぞ」
「えぇ、酷いなぁ兄さん」
そして、僕の王宮生活にアンが加わり、僕は胸が踊った。次期国王としての勉強や馬術、剣術の練習が終わり、空いた時間にアンの元へ訪れることが日課になった。
夜は、ユーガを連れて、ほんの少しだけアンと語り合う為に、アンの部屋に通った。ある日、アンは震えながら言った。
「私、立ち直れないの。彼に、ユーリに売られたことが」
アンは自分の体を抱きしめた。
「酒代が足りないからって、簡単に私を人身売買の商人に売ったわ。ユーリの目が、忘れられないわ。私を見つめる、関心のない目。お金ばかり見る目」
僕は堪らず、アンを抱きしめた。アンは泣きじゃくって、僕の胸の中で、わぁわぁと声を上げた。
「私、愛してた。ユーリを、愛していたのに! 彼は、違かった!」
背中を優しくさする。
「アン。辛かったね」
「私は最低な人間だわ。メルに助けられて、とても良くしてくれてる。なのに私、自分のことばかり考えてるわ。本当にごめんなさい、メル」
「大丈夫だよ、アン」
僕は、ほんの少しだけ力を込めて、アンを抱きしめた。
「安心して、これからは僕がアンを守るから。怖がらないで」
そう言うと、アンは小さく、小動物のように頷いた。こんこん、と扉が軽く叩かれた。ユーガの声だ。
「メル様、お話が」
「アン、またね」
アンの体をゆっくりと離すと、アンは少しだけ笑った。あぁ、久しぶりの笑顔だ。僕は嬉しくなった。良かったと思いながら部屋を出ると、眉間にしわを寄せたユーガの姿があった。
「メル様のお部屋に戻りましょう」
「あぁ、そうだね」
歩きながら、ユーガは僕に重々しい口調で言った。
「メル様、そろそろ戴冠式が近づいて参りましたね。ですが、日が近づくにつれて怪しい動きがあります」
「怪しい動き?」
「新王反対派のデモが、活発化しているそうです。今までのように、簡単に下町に行くことはお控え下さい。暴動に巻き込まれる可能性がありますので」
「下町に興味はもう無いよ。僕は愛しい人を、僕の傍に置けた。愛している人の傍から離れるものか」
ユーガは、立ち止まった。僕も立ち止まる。
「メル様。あなたは次期国王。愛することは自由ですが、彼女を妃にすることは出来ないのですよ」
僕は鼻で笑った。
「分かっているよ、ユーガ」
「それなら、良いのですが」
平民の彼女を妃に迎えることは出来なくても、僕の心は彼女だけを愛している。アンさえ、傍に居てくれれば良い。そう思っていたのだが。
アンは笑わなくなった。
いくら話しかけても、彼女は少しも微笑まなくなった。それだけではなかった。彼女は、食べても味がしないと言い始めた。アンの食欲が大幅に減った。僕は焦り始めた。味がしない恐ろしさを、僕は身に染みて分かっている。
それでもなんとかして、アンに食べるように進めた。アンは食べるが、食べた分だけ、吐いてしまう。
一日、一日が過ぎる度に、彼女の顔は青ざめて、やつれていった。ついには立てなくなった。ベッドで微かに息をするアンを見て、僕は涙を堪えられなかった。
医者を呼んだ。
医者によれば、環境の変化による過労と、心労が、彼女の体の負担になっているという事だった。
「メル様。彼女を家に戻してやってはどうでしょうか?」
ある日、アンの見舞いに行こうとした僕に、ユーガが提案した。
僕の目の前に選択が突きつけられる。
彼女を元いた場所に帰すか、帰さずに僕の手でアンを守るか。
僕が出した答えは。
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