アンに婚約者がいると発覚してから数日経っても、僕はとてもアンを諦められる気がしなかった。チョコレートケーキを買いに行こうと、木綿の布で頭を巻いていた時だった。
「兄さん。最近よく町に出かけるね。好きな子との逢瀬はどうだい?」
いつの間にか、僕の部屋に弟のロフィが入り込んでいた。僕は無視した。
「ねぇ兄さん。逢瀬を楽しむのは良いけど、兄さんは王様になるってことをお忘れなく」
「何が言いたいの」
ロフィは口の端を釣り上げて笑った。
「好きな子が欲しいなら、無理やりこっちの王宮に連れてきても良いんだよ。庶民一人ぐらい、どうとでもなる。奪える」
心臓が、跳ねた。
奪える。そんなこと、少しも考えたことは無かった。
何を言ってるんだと思う反面、この恋の始末の方法の一つが発見出来て、微かに喜んでいる自分もいた。
「そう。わざわざ、ありがとうロフィ。もう言いたい事は言った? さっさと出ていけば」
僕の心を見透かされないように言うと、ロフィは、はいはい、と言いながら出ていった。
奪える。
その言葉に魅了された。あぁ、そうだ。
僕は、権力を持っている。
もし、彼女を王宮に呼び寄せたなら、彼女の意思とは関係なく、この場所に永遠に閉じ込めることも出来るのだ。
ほの暗い考えが頭をよぎるが、振り払う。
違う。僕は彼女の自由を奪いたいわけではない。では、どうしたいのだ?
僕と同じ気持ちを、アンが僕に対して向けてくれたらと思うのだ。
僕は笑った。自分の執着の強さに、願望に、深く呆れた。
その後、僕はアンの元へ訪れた。
屋台で接客をするアンに、僕は、自然な笑みを浮かべるように努力した。
「アン、こんにちは。チョコレートケーキを貰えるかな」
アンがこちらを見て、ほんの少しだけ目を大きくさせた。
「メル! また一人で来たの? 危ないわよ」
「心配してくれてありがとう」
僕は媚びるようにアンに尋ねた。
「ねぇ、アン。もし君が、この国の王子様に一目惚れされたとして、王宮においでって言われたら、君は行く?」
すると、アンはすぐさま口を開いた。
「行かないわ。だって、私にはユーリがいるもの」
予想していた反応に、僕は思わず苦く笑ってしまった。
「そこまで、君はあの人が好きなんだね」
「そうよ。私の大事な幼なじみなの」
アンは、優しげに目を細めた。
「あの人は元々気が弱くて。私が守らなきゃって思ってた。でもお酒を飲むようになってから、人が変わったわね。女遊びもするようになったし。でも、私が一番好きって言ってくれるの。だから、そんな彼も守ってあげたいって思うの」
彼女の想いの強さが、言葉のあちこちから滲み出ていた。僕は言葉に詰まりそうになった。だが、耐えた。
「そうなんだね。その、ユーリは今日はどこに?」
呆れた口調でアンは言った。
「またお酒を飲みに行ってるわ」
アンは、チョコレートケーキが入った包みを、僕に丁寧に手渡した。
「はい、チョコレートケーキよ。メル、また来てね。わたし、メルと話すの楽しくて好きだわ」
美しい笑顔だった。直視出来なかった。
駄目だ。幸せそうにユーリについて喋る彼女の姿を見るのは、苦痛だった。僕の恋心よりも、その痛みの方が上回った。
もし彼女を無理やり王宮に連れて行ったところで、僕に心を向けることは、きっとないだろう。
彼女に会うのは、次で最後にしよう。
「ありがとう。また来るよ」
僕は、そう決心した。
また数日経った後に、アンの店に一人で訪れたのだが、屋台には誰も居ないどころか、商品すら陳列されていなかった。
僕は、アンの店の隣で、野菜を売っている屋台の女店主に尋ねた。
「あの。ここの店にアンっていう女の子がいたと思うんだけど。今日は休業日かな?」
女店主は、大袈裟に手を振った。
「違うわよ。あの子、婚約者いたの知ってる?」
「知ってるよ」
「噂だけどね、婚約者に人身売買の商人に売られたみたいよ。酒代代わりに」
一瞬、何を言われたか分からなかった。
「何だって?」
人身売買? アンが?
「その、人身売買の商人はどこにいるか分かる?」
女店主に詰め寄ると、女店主は、困ったように後ずさりした。
「ごめんなさい、分からないわ」
アンが、人身売買に。
目の前が真っ暗になる。
一体どういう事だ。あまりのことに、足元の地面がなくなったような、そんな感覚に陥る。
しかし、僕は自分自身を奮い立たせた。冷静になれるように、何度も深呼吸を繰り返した。
何としても彼女を取り戻す。
その為には一刻も早く、情報が必要だった。
僕は走り出す。闇雲に走ったわけではない。
人が集まり、情報がよく集まる場所と言ったら、酒場しか思いつかなかった。
走る、走る、走る。
人の波をかき分けて、走った。
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