恋愛チョコレート物語

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アン

公開日時: 2020年9月2日(水) 18:31
文字数:3,458

僕とユーガは王宮を出る前に、生成り色のシャツと地味な灰色のズボンに着替え、地面の硬さを直接感じる貧相な薄皮の靴を履いた。


視察に行く町では、長い布で頭部と上半身を覆う習慣がある。目立たない木綿の長い布で、体をぐるりと覆った。


準備を整えて、現在、ヨークと呼ばれる町を訪れている。その町の大通りを歩いているのだが、沢山の人々が行き交っていて、僕は目が眩みそうだった。


道の両脇には、肉や魚、野菜やハーブなどの食料品を売るテントの店や、衣料品や装飾品、ヤギや犬などの家畜を売っている露店が立ち並んでいた。商品を見ようと、大勢の人々が店に立ち寄っては、楽しげに、または真顔で買い物をしていく。


王宮で暮らす人間とは違った、人々の忙しない暮らしに、僕は憧れを覚えた。そんな風に思って歩き続けていると、喉が乾いていることに気付いた。


「ユーガ、水売りの店に行こう」

「かしこまりました。水売りの店は、あそこにありますね」


水売りの店に立ち寄ると、腹がでっぷりと膨らんだ体格の良い大きな男が、愛想よく笑って対応した。


「いらっしゃい! 新鮮な汲みたての水だ! お客さん、どれくらいの水が欲しいんだい?」


僕は答えた。


「コップ一杯の水を、二人分で」

「まいどあり。ついでに、薄く切ったレモンも入れてあげよう」


支払いを済ませると、水売りの男は、大きな木の樽の蓋を開けて、木のひしゃくで水をたっぷりとすくった。


黄ばんだ色のグラスに水を入れる。そして、輪切りに薄く切られたレモンを一枚、水の中に入れた。


「飲み終わったら、グラスは俺に返してくれ」


礼を言いながら受け取り、ユーガにグラスを渡してから、僕は自分のグラスに口をつけた。


ひんやりと冷たかった。喉が潤っていく。


こくこくと飲んでいると、周囲の人々の様々な会話が、耳に入ってきた。


「やぁね。また穀物の値上がり?」

「王がまた税金を上げたんだろう? また取り立てが厳しくなるな」

「来月になれば、新しい王が就くのね。まだ若いって聞いたわよ? 不安だわ、一応戴冠式は見に行くけど、どんな人が王になるのかしらね」


僕だって王になるのは不安だよ、と思いながら、水を一気に飲んだ。


グラスの底にレモンが張り付いていたので、それをつまんで食べる。その様子を見ていた水売りの男は、豪快にげらげらと笑った。


「レモンまで食べちまうとは! 酸っぱくなかったかい?」

「酸っぱかったよ」


咄嗟に嘘をついた。


「そうか。面白い坊ちゃんだ。またおいで」


ユーガも飲み終わり、再び僕とユーガは通りを散策した。路上に流れ出る食物の匂いや、物売りのたちの大きな声に飽き飽きしてきた頃、ふと、女の声が聞こえた。


「いらっしゃいませ、美味しいケーキはいかがですか? 作りたての、りんごケーキやオレンジケーキ、チョコレートケーキもありますよ!」


凛とした、心地の良い声だった。

思わず声の持ち主を探す。見つけた。


屋台に立つ一人の少女が、にこやかな笑顔を振りまきながら、声掛けをしていた。


惹き付けられるように、ふらふらとしながら立ち寄る。少女と目が合った。笑顔だった少女の表情が、驚いた顔へと変わっていく。


「ちょっとあなた大丈夫? ふらふらしてるじゃない!」

「いや、少し疲れただけで、大丈夫だよ」

「何言ってるの。顔色も悪いわよ。ちょっとで良いから、私の店で休んでいきなさいよ」


ユーガ、どうする――と言おうとした瞬間、ユーガが傍に居ないことに気がつく。慌てて辺りを見回すが、ユーガはどこにもいない。どうやら、はぐれたようだった。


「ほら、こっちに来て。あなた、名前は?」


「メル」


「私はアンよ。よろしくね」


アンは、にっこりと人好きする笑みで微笑んだ。純粋な笑みだった。可愛い人だなと思いながら、屋台の中に入った。その間にアンは地面に布を敷いてくれた。


「ここに座って休んでて」


「あ、ありがとう」


座ると、頭のてっぺんからつま先まで、一気に疲れが落ちてくるようだった。疲れが溜まっていたんだな――と思っていると、アンが僕をじっと見つめていることに気がついた。


真っ直ぐな彼女の、緑の瞳に、僕はたじろぐ。


「な、なに?」

「あなた、とても綺麗な顔をしているのね。まるで人形みたいに、整った顔だわ」


気恥ずかしくて俯く。


「青い目も綺麗だわ。ねぇ、メルの髪の色は何色なの?」

「金色だよ」

「いいな。私なんて白髪なのよ。ほら、この町の習慣で、頭と体を布で巻くじゃない。この習慣は好きじゃないけど、この髪色を隠せるから。まだ、我慢できるのよね」

「ふぅん、そうなんだね」


急に、僕の腹がぐるぐると鳴った。珍しく、腹が空いたようだった。


「ねぇ、チョコレートケーキを売っているんだよね。買いたいんだけど、いくらかな?」

「売ってるけど、お代はいらないわよ。とにかく何か食べて。あなたの体って、とても細くて気になるわ」


僕は慌てた。布で体の細さを、少しは隠せていると思ったのに。


「はい、どうぞ」


僕の目の前に、ふんわりとしたチョコレートケーキが一切れのせられた皿が差し出された。

咄嗟に受け取ると、アンは、にやっと笑った。


「私の手作り、ナッツ入りのチョコレートケーキよ。体にも良いから食べてみて」


ケーキから漂う、チョコレートのほのかな甘い香りに、よだれが出てきた。たまらずケーキを手に取り、一口かじった。


ぱさぱさとしていた。

口の中の水分が奪われていく。


チョコレートケーキに練りこまれたナッツを噛み砕く。ぼりぼりとした食感は楽しかった。だが、チョコレートをお湯で薄めたような素朴なケーキな味に、僕は物足りなさを感じてしまった。


それでも。凝り固まって、緊張で張りつめた心を溶かしていくような、淡く、優しい味わいに心を奪われた。


心が幸せで満たされていく。


食べていると視界が歪んだ。ぼろりと、熱いものが目からこぼれた。つん、と鼻が痛くなる。ぎょっとしてアンは僕を見つめた。


「メル、どうして泣いてるの? ま、不味かったかしら」

「違うよ。食べたら、心が温かくなって、ぽかぽかになったんだ」


最後の一欠片を飲み込み、僕は心から笑った。


「ありがとう。こんなに気持ちがこもった素敵なチョコレートケーキを、僕は食べたことがないよ」


そう言ってアンを見た時、はっとした。


アンのふっくらとした白い頬が、薄くピンクに色づいている。真っ赤なバラの花びらをのせたような、赤い小さな唇が、僕の名前を甘く呼んだ。


「こちらこそありがとう、メル」


穏やかに細められた大きな愛らしい目が、きらきらと光って僕を見つめている。


心臓が射止められた。時が止まった。息が詰まった。


そして、その後のことを僕はよく覚えていなかった。僕を探しにきたユーガが、血相を変えて僕を見つけるなり、とても謝られたことは覚えている。しかし、その後どうやって王宮まで戻ったのか覚えていなかった。


ただ、アンの微笑んだ姿だけが、僕の目に焼き付いていた。


ふわりとしたベッドに横になり、枕に顔を埋めた。顔が熱い。目が潤む。


なのに、うさぎが小躍りしているかのように、心が弾んだ。


こんな気持ちは初めてだった。

食べてもいないのに、口の中にチョコレートの甘い味が広がっているような気がした。


こんこん、と扉を叩く音が聞こえた。


「お邪魔するよ、兄さん」


嫌な声が聞こえた。はっと顔をあげると、弟のロフィが扉の傍に立っていた。


「随分と間抜けな顔だね、兄さん。ユーガと町に行ってきてから様子が変だけど、恋でもしたの?」


僕と似た顔のロフィは、にやにやと笑う。


「ロフィ。僕を馬鹿にする為に来たの?」

「まさか! 俺は応援しに来たんだよ」


ロフィは、大袈裟に手を広げた。


「王様になることを怖がっている王子を支える女の子がいれば、少しは臆病な王子から脱却出来るかなってね!」


思わず僕は起き上がって、素早くロフィの傍に近寄り、胸ぐらを掴んだ。扉に強く押し付けた。


ロフィの背丈は僕よりも高く、体格も僕より大きかった。惨めな気持ちになった。


「そんなに怒らないでよ、兄さん」


僕は強くロフィを睨んだ。


「お前が王をやりたかったら、やってもいいんだぞ」

「絶対に嫌だね。いやぁ、俺は弟って立場で良かったなぁ」


掴んだ胸ぐらを乱暴に放した。微笑を浮かべたまま、ロフィはしわになった服を整えた。


「さて、ちょっかいもかけられたし、俺は帰ろうかな」

「さっさと出ていけよ、気分が悪い」

「はいはい、じゃあね、王様」


ロフィは両手を振りながら、そう言って出ていった。


苛立ちが腹の中に溜まり、深いため息を吐く。


恋でもしたの――。


この言葉が、僕の心にすみつき始めるのは、時間の問題だった。

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