僕とユーガは王宮を出る前に、生成り色のシャツと地味な灰色のズボンに着替え、地面の硬さを直接感じる貧相な薄皮の靴を履いた。
視察に行く町では、長い布で頭部と上半身を覆う習慣がある。目立たない木綿の長い布で、体をぐるりと覆った。
準備を整えて、現在、ヨークと呼ばれる町を訪れている。その町の大通りを歩いているのだが、沢山の人々が行き交っていて、僕は目が眩みそうだった。
道の両脇には、肉や魚、野菜やハーブなどの食料品を売るテントの店や、衣料品や装飾品、ヤギや犬などの家畜を売っている露店が立ち並んでいた。商品を見ようと、大勢の人々が店に立ち寄っては、楽しげに、または真顔で買い物をしていく。
王宮で暮らす人間とは違った、人々の忙しない暮らしに、僕は憧れを覚えた。そんな風に思って歩き続けていると、喉が乾いていることに気付いた。
「ユーガ、水売りの店に行こう」
「かしこまりました。水売りの店は、あそこにありますね」
水売りの店に立ち寄ると、腹がでっぷりと膨らんだ体格の良い大きな男が、愛想よく笑って対応した。
「いらっしゃい! 新鮮な汲みたての水だ! お客さん、どれくらいの水が欲しいんだい?」
僕は答えた。
「コップ一杯の水を、二人分で」
「まいどあり。ついでに、薄く切ったレモンも入れてあげよう」
支払いを済ませると、水売りの男は、大きな木の樽の蓋を開けて、木のひしゃくで水をたっぷりとすくった。
黄ばんだ色のグラスに水を入れる。そして、輪切りに薄く切られたレモンを一枚、水の中に入れた。
「飲み終わったら、グラスは俺に返してくれ」
礼を言いながら受け取り、ユーガにグラスを渡してから、僕は自分のグラスに口をつけた。
ひんやりと冷たかった。喉が潤っていく。
こくこくと飲んでいると、周囲の人々の様々な会話が、耳に入ってきた。
「やぁね。また穀物の値上がり?」
「王がまた税金を上げたんだろう? また取り立てが厳しくなるな」
「来月になれば、新しい王が就くのね。まだ若いって聞いたわよ? 不安だわ、一応戴冠式は見に行くけど、どんな人が王になるのかしらね」
僕だって王になるのは不安だよ、と思いながら、水を一気に飲んだ。
グラスの底にレモンが張り付いていたので、それをつまんで食べる。その様子を見ていた水売りの男は、豪快にげらげらと笑った。
「レモンまで食べちまうとは! 酸っぱくなかったかい?」
「酸っぱかったよ」
咄嗟に嘘をついた。
「そうか。面白い坊ちゃんだ。またおいで」
ユーガも飲み終わり、再び僕とユーガは通りを散策した。路上に流れ出る食物の匂いや、物売りのたちの大きな声に飽き飽きしてきた頃、ふと、女の声が聞こえた。
「いらっしゃいませ、美味しいケーキはいかがですか? 作りたての、りんごケーキやオレンジケーキ、チョコレートケーキもありますよ!」
凛とした、心地の良い声だった。
思わず声の持ち主を探す。見つけた。
屋台に立つ一人の少女が、にこやかな笑顔を振りまきながら、声掛けをしていた。
惹き付けられるように、ふらふらとしながら立ち寄る。少女と目が合った。笑顔だった少女の表情が、驚いた顔へと変わっていく。
「ちょっとあなた大丈夫? ふらふらしてるじゃない!」
「いや、少し疲れただけで、大丈夫だよ」
「何言ってるの。顔色も悪いわよ。ちょっとで良いから、私の店で休んでいきなさいよ」
ユーガ、どうする――と言おうとした瞬間、ユーガが傍に居ないことに気がつく。慌てて辺りを見回すが、ユーガはどこにもいない。どうやら、はぐれたようだった。
「ほら、こっちに来て。あなた、名前は?」
「メル」
「私はアンよ。よろしくね」
アンは、にっこりと人好きする笑みで微笑んだ。純粋な笑みだった。可愛い人だなと思いながら、屋台の中に入った。その間にアンは地面に布を敷いてくれた。
「ここに座って休んでて」
「あ、ありがとう」
座ると、頭のてっぺんからつま先まで、一気に疲れが落ちてくるようだった。疲れが溜まっていたんだな――と思っていると、アンが僕をじっと見つめていることに気がついた。
真っ直ぐな彼女の、緑の瞳に、僕はたじろぐ。
「な、なに?」
「あなた、とても綺麗な顔をしているのね。まるで人形みたいに、整った顔だわ」
気恥ずかしくて俯く。
「青い目も綺麗だわ。ねぇ、メルの髪の色は何色なの?」
「金色だよ」
「いいな。私なんて白髪なのよ。ほら、この町の習慣で、頭と体を布で巻くじゃない。この習慣は好きじゃないけど、この髪色を隠せるから。まだ、我慢できるのよね」
「ふぅん、そうなんだね」
急に、僕の腹がぐるぐると鳴った。珍しく、腹が空いたようだった。
「ねぇ、チョコレートケーキを売っているんだよね。買いたいんだけど、いくらかな?」
「売ってるけど、お代はいらないわよ。とにかく何か食べて。あなたの体って、とても細くて気になるわ」
僕は慌てた。布で体の細さを、少しは隠せていると思ったのに。
「はい、どうぞ」
僕の目の前に、ふんわりとしたチョコレートケーキが一切れのせられた皿が差し出された。
咄嗟に受け取ると、アンは、にやっと笑った。
「私の手作り、ナッツ入りのチョコレートケーキよ。体にも良いから食べてみて」
ケーキから漂う、チョコレートのほのかな甘い香りに、よだれが出てきた。たまらずケーキを手に取り、一口かじった。
ぱさぱさとしていた。
口の中の水分が奪われていく。
チョコレートケーキに練りこまれたナッツを噛み砕く。ぼりぼりとした食感は楽しかった。だが、チョコレートをお湯で薄めたような素朴なケーキな味に、僕は物足りなさを感じてしまった。
それでも。凝り固まって、緊張で張りつめた心を溶かしていくような、淡く、優しい味わいに心を奪われた。
心が幸せで満たされていく。
食べていると視界が歪んだ。ぼろりと、熱いものが目からこぼれた。つん、と鼻が痛くなる。ぎょっとしてアンは僕を見つめた。
「メル、どうして泣いてるの? ま、不味かったかしら」
「違うよ。食べたら、心が温かくなって、ぽかぽかになったんだ」
最後の一欠片を飲み込み、僕は心から笑った。
「ありがとう。こんなに気持ちがこもった素敵なチョコレートケーキを、僕は食べたことがないよ」
そう言ってアンを見た時、はっとした。
アンのふっくらとした白い頬が、薄くピンクに色づいている。真っ赤なバラの花びらをのせたような、赤い小さな唇が、僕の名前を甘く呼んだ。
「こちらこそありがとう、メル」
穏やかに細められた大きな愛らしい目が、きらきらと光って僕を見つめている。
心臓が射止められた。時が止まった。息が詰まった。
そして、その後のことを僕はよく覚えていなかった。僕を探しにきたユーガが、血相を変えて僕を見つけるなり、とても謝られたことは覚えている。しかし、その後どうやって王宮まで戻ったのか覚えていなかった。
ただ、アンの微笑んだ姿だけが、僕の目に焼き付いていた。
ふわりとしたベッドに横になり、枕に顔を埋めた。顔が熱い。目が潤む。
なのに、うさぎが小躍りしているかのように、心が弾んだ。
こんな気持ちは初めてだった。
食べてもいないのに、口の中にチョコレートの甘い味が広がっているような気がした。
こんこん、と扉を叩く音が聞こえた。
「お邪魔するよ、兄さん」
嫌な声が聞こえた。はっと顔をあげると、弟のロフィが扉の傍に立っていた。
「随分と間抜けな顔だね、兄さん。ユーガと町に行ってきてから様子が変だけど、恋でもしたの?」
僕と似た顔のロフィは、にやにやと笑う。
「ロフィ。僕を馬鹿にする為に来たの?」
「まさか! 俺は応援しに来たんだよ」
ロフィは、大袈裟に手を広げた。
「王様になることを怖がっている王子を支える女の子がいれば、少しは臆病な王子から脱却出来るかなってね!」
思わず僕は起き上がって、素早くロフィの傍に近寄り、胸ぐらを掴んだ。扉に強く押し付けた。
ロフィの背丈は僕よりも高く、体格も僕より大きかった。惨めな気持ちになった。
「そんなに怒らないでよ、兄さん」
僕は強くロフィを睨んだ。
「お前が王をやりたかったら、やってもいいんだぞ」
「絶対に嫌だね。いやぁ、俺は弟って立場で良かったなぁ」
掴んだ胸ぐらを乱暴に放した。微笑を浮かべたまま、ロフィはしわになった服を整えた。
「さて、ちょっかいもかけられたし、俺は帰ろうかな」
「さっさと出ていけよ、気分が悪い」
「はいはい、じゃあね、王様」
ロフィは両手を振りながら、そう言って出ていった。
苛立ちが腹の中に溜まり、深いため息を吐く。
恋でもしたの――。
この言葉が、僕の心にすみつき始めるのは、時間の問題だった。
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