恋愛チョコレート物語

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苦いチョコレート

公開日時: 2020年9月2日(水) 20:00
文字数:2,985

僕はアンに会った次の日、ユーガと一緒に、再びヨーク通りの商店街に訪れていた。王宮のシェフに作らせた、ハーブが練り込まれたクッキーの包みを持ち、アンにお礼として渡そうと考えていた。


今日も人通りが多い。


こちらに向かってくる人を避けながら歩いていると、急に子供のギャッとした悲鳴が聞こえた。


思わず声の方向に顔を向けると、一人の男の傍に、幼い子供が地面に転がっていた。


「おい!」


僕は咄嗟に子供に駆け寄った。


泣きじゃくる子供を抱き寄せると、子供は、わぁわぁ泣きながら僕にしがみついた。


「ちっ。てめぇが勝手に俺にぶつかって来たんだろ、うざってぇなぁ」


低い男の声に、僕は顔を上げた。

僕と子供を心底邪魔そうに見下した、黒い瞳。とても整った顔立ちをしていたが、その顔はトマトのように真っ赤で、すらっとした体から漂う酒の臭いは酷かった。


この男、酔っている。

僕は声を荒らげて、怒った。


「その言い草はないだろう。自分より小さな子を気遣うのが、大人だろう!」


男は笑った。


「ガキを気遣ってどうするんだぁ? 女を気遣うならともかく、ガキを気遣ったところで何の心の足しにもならねぇよ。あー、酔いがさめたわ」


そう言い残し、男は去っていった。


なんてやつだ。


子供は、今も泣いている。


咄嗟に僕はクッキーの包みを取り出し、子供の目の前に、クッキーを見せた。


「ほら、お食べ」


子供は泣きながら食べた。


食べると次第に、泣き声は止み、笑顔が戻ってきた。


「残りは家で食べるといい。ほら、しっかりクッキーの包みを持って」


子供にクッキーの包みを持たせると、子供は、赤い目のまま、可愛らしく笑った。


「ありがとう、お兄ちゃん」


去っていく子供に手を振っていると、様子を見ていたユーガが、静かに微笑んだ。


「お優しいメル様」

「当然のことをしただけだよ。今日は、アンの店でチョコレートケーキを沢山買っていこう」

「えぇ、そうですね」



しばらく歩き、アンの店にたどり着く。

屋台の中で、にこやかに笑顔を振りまくアンに、僕は軽く手を振って挨拶をした。


「アン、こんにちは」


こちらに気づいたアンも、笑って手を振り返してくれた。


「あらメル! こんにちは」


まじまじと僕を見つめたアンは、ほっとした息をついた。


「昨日はふらふらしてたけど、今は大丈夫みたいね、安心したわ」


優しい声色に、僕は思わず、照れて下を向く。


「本当に昨日はありがとう。あの、なにかお礼がしたいんだけど」

「お礼なんかいらないわよ、気にしないで」


あっさりと断ったアンに、僕は屋台で売られているチョコレートケーキを見つめた。


「じゃあ、今日はありったけのチョコレートケーキを買わせて欲しいな。今日売っている分のチョコレートケーキを全部ちょうだい」

「全部? そんなにチョコレートケーキが好きなの?」


くすくす、と可笑しそうにアンが笑う。

僕もつられて一緒に笑った。


「うん、大好きだよ」


一緒に笑えるこの時間が、幸せに思えた。


「そうだ。あの、もし良かったら」


暇な時に、商店街を一緒に見に行かないか、と誘おうとした瞬間だった。


「おい、アン。帰ったぞ」


僕の背後から、男の低い声が聞こえた。


「ユーリ!」


アンが、ぱっと表情を明るくさせた。僕は後ろを振り返った。あ、と思った。

体から漂う酒の匂い。見下した黒い瞳。子供とぶつかったのに、謝りも助けもしなかった、先程の男だった。


思わず睨むと、ユーリとアンに呼ばれた男は、僕を強く睨み返してきた。


「あ? てめぇ、なんだその目は。俺になにか用かよ」


アンは、困った様子で微かな溜息を吐いた。


「もう。ユーリったら、誰にでも喧嘩売ろうとしないの。だいぶお酒臭いけど、また飲んできたのね」

「飲んでも酒が足りねぇ。おい、金よこせ」

「はいはい。仕方ない人ね」


そう言ってアンは、小さな皮袋をユーリに渡した。ユーリは皮袋の中身を確認すると、にやっと笑った。


「あんがとよ。じゃあな」


最後に僕を横目で睨んでから、ユーリは、ふらふらとしながら立ち去った。


「ねぇアン。今の男、誰?」


アンの友達にしては、随分と態度が悪すぎる。アンの兄だろうか、と思っていると、アンの口から衝撃的な言葉が出てきた。


「ごめんなさい、感じ悪かったわよね。あの人はね、私の婚約者なのよ」

「こ、婚約者?」


ぎょっとして、僕はアンを見つめた。


「そう。酒癖が悪いけど、お酒さえ抜けてしまえば、優しい人なのよ」


優しく、甘やかにアンは笑った。


「そ、そう」


心臓に、冷たい氷を当てられたような気がした。そうか、彼女には婚約者がいたのか。だが、態度も感じも悪い、あんな男がどうしてアンの婚約者なのか、理解が全く出来なかった。


その日、僕はチョコレートケーキを大量に買い占めてから王宮に戻ったが、頭の中はアンとユーリの関係性のことばかり考えていた。


それから数日経った頃、また僕は、一人でアンの店へと訪れた。


「また、チョコレートケーキが欲しいな」


アンは驚いて目を丸くさせた。


「あら。一人で来たの? 危ないわよ、最近は人身売買の商人が、こっちに来てるって噂よ。綺麗なメルの顔を見たら、さらわれちゃう」


可笑しくて、僕は小さく笑った。


「大丈夫だよ。これでも僕、鍛えてるから」


貧相な体でも、自分の身を守れるぐらいには、王宮で剣の稽古をしている、とは言わなかった。


「そう? ならいいけど」


僕は頷きながら屋台を覗き込むと、地面に誰かが寝そべっている姿が見えた。


ユーリだった。


だらしなく口を開けて、昼間だと言うのに、眠りこけている。僕は眉間にしわを寄せて、ユーリを睨んだ。


「ねぇ。昼間から、この人は寝てるの?」


アンは呆れた口調で、それでも、愛おしそうに笑った。


「そう。お酒飲み始めるようになってから、仕事をしなくなっちゃったのよね。でも、仕方ないわ。その分、私が頑張らないとね」

「そ、そう」


なんて男だ、とユーリを見つめていると、寝ていたはずのユーリが、ぱちっと目を開いた。僕と目が合うと、急に嫌そうな表情に変わった。


「あ? てめぇ前にも見たな」

「ユーリ。お客さんになんて事言うの」


たしなめるアンに、ユーリは僕を見て、怪しげに気味悪く笑った。気だるそうに立ち上がる。


「客? 客ねぇ、へぇ?」


アンの腰を引き寄せた。ぎょっとしたアンは、ユーリと僕を交互に見た。


「ちょっとユーリ?」


ユーリはアンを抱きしめ、僕に向かって挑発的に笑った。


「愛してるぜ、アン」


それを見た瞬間、全身が熱くなった。今すぐにでも二人を引き離したい。やめろ、と叫びたい。だが、理性で獣のような衝動を堪えた。


「もうユーリ、離れて。メルが困ってるでしょ」


素直に離れたユーリに、アンは僕を見て困ったように微笑んだ。チョコレートケーキを包みの中に入れて、僕に差し出す。


「ごめんなさいね、メル。はい、チョコレートケーキよ」

「ありがとう」


僕は、きちんと笑えただろうか。


分からなかった。


心が、荒れる、荒れる、荒れる。大嵐がやってきたかのような激しい津波が、僕の心を襲った。


王宮に戻り、僕は買ったチョコレートケーキを一口食べた。


苦い。


舌いっぱいに苦さが広がり、もうこれ以上は食べていたくないと、舌が悲鳴を上げた。


僕の目から、冷たい涙がこぼれた。


彼女を諦めたくない。みっともなく足掻く自分がいる。


まるで深い井戸の底に落とされて、光を求めて必死にもがく虫のように思えた。


どうすればいい、どうすればいいのだ。


僕はなんの答えも出せなかった。

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