「お父様、リノリラです」
ノックをした後、返事を待ったが、扉はすぐに開いた。
「ああ、リノリラ。そこに座りなさい」
書斎にあるソファーで、父の正面に座る。こうした形で父と話すのは、初めてかもしれない。
「お前は今、いくつになるのかな」
「18です。再来月には、19歳になります」
「そうか、もう、そんな年齢であったか」
父は、ふぅ、とため息をついた。そしておもむろに話し出した。
「お前に、婚約の話が来ている。これまでも、話がないわけではなかったが、お前はまだ幼いと思い、何もしていなかった。が、もう、18歳になるのか」
普段から、しっかりしていない父親と思っていたが、自分の娘が適齢期であることも忘れているとは。
「お相手は、どなたですか?」
今まで話がなかっただけで、リノリラも貴族の娘である。いつか、自分が政略結婚することは、覚悟していた。
「まぁ、それだがな。お前も、シキズキの体調は知っているだろう。今まで、シキズキが跡取りとして生きていけるのか、不安もあった。万一、難しい場合には、お前に婿をとって、伯爵家を継いでもらうつもりもあった」
やはり、自分の婚約者がなかなか決まらないのは、そうした背景があったからか。そうであろうと思っていたが、はっきり言われると、悲しくなる。そこまで、父はシキズキのことを信用していなかったのか。
「シキズキも、ようやく回復の兆しがみえてきた。この調子であれば、成人する頃には、跡取りとしてしっかり伯爵家を盛り上げてくれるだろう」
「父さま、そう思っていただけるのですか?」
「ああ、今はそう思うよ。シキズキも、しっかりしてきた」
「よかった、父さまがそう思ってくれるのであれば、安心です。私、どこにでもお嫁に行けますね」
「そうなるな。それで、だ」
そう言うと、父は婚約者候補の釣書を一枚、見せてきた。
「この方は、ソングフィールド家の、次期侯爵となる方だ。グレアム・ソングフィールド、お前より、2歳ほど上になるな」
「ソングフィールド侯爵家、ですか?そんな、次期侯爵様がなぜ、私を」
「ああ、本人を知っているか?」
「いえ、私も夜会には、あまり出ていませんので。どういった方なのですか?」
「すまんな、私もあまり記憶はないのだが、とにかく、我が家の先祖がかつて、ソングフィールド家を助けたことがあるようで、相手側が恩義に思っているらしい。我が家の窮乏した現状を知って、結婚という形で支援をしたい、と言われてきた」
「我が家の支援ですか」
「そうだ。ああ、だがリノリラ、お前がどうしても納得できない相手であれば、無理に婚約することもない」
「父さま、侯爵家相手に、お断りすることができますか?」
「ああ、これまでも断って来た。状況が許されるようになったから、受けてみようかとお前に話をしている。お前が嫌なら、これまで通り断るだけだ」
さすが、社交界に顔をださない父親だから、貴族のしがらみに囚われていない。だが、自分の結婚で支援を受けられるのであれば、ついてはシキズキの支援にもなる。
断る理由は…と、そこでティードの顔を思い浮かべたが、彼はただの護衛騎士だ。次期侯爵と比べることも失礼になる。胸の痛みを覚えたが、伯爵令嬢として何を選ぶかは、決まっている。
「わかりました、お父様」
「そうか、まずは本人に会ってみるといい。次の王宮での夜会に行けば、会えるだろう」
「王宮での、夜会ですか」
「2週間後だ。用意しておきなさい」
わかりました、と返事をして、部屋を出る。
「運命に出会う」と、精霊が告げたことを思い出す。あの時は、その運命がティードであれば嬉しいな、と思っていたが、精霊は時期については告げていなかった。
もしかしたら、2週間後の夜会で会うグレアム次期侯爵が、それなのかもしれない。
父は断っていい、と言うが、これはもう、ほぼ決定しているようなものだ。そうなると、ティードに会うのも、控えなくては。明日は、約束している最後の日だ。手袋も、返してしまおう。
そして、彼のことは忘れなければ。あの、力強く抱きしめてくれた腕も、汗臭い匂いも、初めてのキスも。
リノリラの頬を、涙がひとつ、ふたつと、伝っていく。初恋は実らない。そんな言葉が、ふと思い出される。そうだ、私は彼に恋をしたのだ。皮肉なことに、諦めなくてはいけない今、そのことがわかるなんて。
「私、ティード様が、好き」
伝えることのできない想いを、口にする。
「ティード様の、笑顔が、好き」
蒼い髪を、かき上げる仕草が好きだった。見掛けはほっそりとしているのに、抱きしめられると、胸板が厚いことがわかる。少し汗臭い。でもその全てが、今は好ましい。
「ティード様、でも、諦めなくては」
失恋とは、こんなにもつらいものか。明日は、最後になる。幸せの妖精に会える、その喜びがある一方で、リノリラは悲しみに暮れていた。
そんな時、トントン、とドアをノックする音がする。
「姉さん、ちょっといい?」
「シキズキ?」
「うん、明日のことで、話がしたくて」
弟に、部屋に入ってもらう。さっきまで泣いていた顔を、引き締める。
「姉さん、ところで、父さんの話は何だったの?」
「それは…そう、私の婚約者が決まったの」
「えっ!決まったの?」
シキズキは驚いてはいるが、リノリラの年齢を考えると、遅いくらいだ。ひとしきり説明をすると、納得した様子ではあったが、シキズキは姉を心配していた。
「姉さんは、それでいいの?」
「グレアム様に、夜会でお会いできるから、それからの話よ。一応、父さまからは断ってもいいと」
「姉さん、僕のために断らない、と思っているでしょう」
「え?」
「姉さん、家のこととか、僕のこととか考えすぎないで、断ってもいいよ」
「シキズキ?何を言っているの?」
シキズキは、急に大人びた顔をするようになった。今回の結婚話も、彼が成長して、体調も安定しつつあるとはいえ、不安がなくなったわけではない。何かあったとき、侯爵家という後ろ盾がある方が、何かと安心でもある。
「私は、こんなにいいお話をお断りする理由がないわ」
「姉さん。彼のことはいいの?騎士様のこと」
「それはっ…」
思わず動揺してしまうが、もう結論は出ている。彼のことは、諦めるだけだ。そもそも、平民なのか貴族なのかわからない彼と、伯爵令嬢である自分が結婚できる未来を思い描くことは、簡単ではない。
「姉さん、僕は、あと1年もしたら健康になって、魔力も上手に扱えるようになるハズだよ。そうしたら、魔術師になる、準備をしたい」
「シキズキ…」
「魔術師になったら、伯爵位は返上する。だから、姉さんと、その結婚相手が伯爵家を引き継いでほしい」
「ダメよ、そんなこと」
突拍子もないことを言い出した弟に、思わず反対する。父が、それを認めてくれるかどうか、わからない。
「次期侯爵になる方に、うちに婿に来て、なんて言えないよね」
「当たり前でしょう、そんなこと」
「だから、婚約してはいけない。姉さん。夜会では、まだ知らないフリをして」
彼の意見はわかるが、不確定なことが多い。だが、彼が元気になろうとしていて、将来に夢を持っていることは、単純に嬉しい。
「わかったわ、どうせ行き遅れている私だから、夜会では知らないフリをすればいいのね」
そう言って納得させ、明日も早いから、とシキズキを部屋へ返す。
もしかしたら、道は一つではないのかもしれない。そう思うと少し、心が軽くなる。とりあえず、明日は妖精に会えるのだから、楽しみなことを考えておこう。
涙を流すのは、全て決まってからにしよう、そう思ってリノリラは、寝台に横になった。
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