アネイシアが別邸で働くようになって三年目の夏、彼女は六歳になった。
その年もディトラスが来訪するという話はすでに聞いており、待ち遠しくてならない。
もらった手習いの本はぼろぼろになるまで練習し、短剣術の練習も欠かさなかった。
初めて会った年にすすめられてのばし続けた髪はもう腰を隠すほどだ。
長い髪は手入れが大変なため、平民は成人ぎりぎりまで肩より下にはのばさないのが普通で、母も彼女の長い黒髪を見るたびに嫌そうな顔をした。
それをよくわかっているので、アネイシアは今年ディトラスに披露したらばっさり切ってしまおうと思っている。
自分でも好きになれなかった漆黒の髪を誉められたのがうれしくて、のばしてみればとすすめてくれたディトラスの言葉を大切にしたかったのだった。
成人は彼女にとってまだまだ先の話なので、切ってしまっても問題ない。
珍しく雨が続いた三日目の正午、ディトラスが到着したと教えられて、アネイシアは通りかかった下男が、今日はまた格別にご機嫌だなとからかうほど、うわついた気分が態度にもでていた。
使用人ではないので出迎えにはいけないが、これからまた二か月一緒に過ごせると思うだけでわくわくする。
ようやく雨のあがった翌日、ディトラスに呼ばれていくと少し大人びた少年は、それでも変わらない笑顔で再会を喜んでくれた。
林のガゼボへ行こうと誘われて一年ぶりに二人で白石の建物へ向かう道すがら、興奮しきりのアネイシアは文字をたくさん覚えたことやもらった短剣を大事にしていること、最近屋敷に仔猫が住みついていることなどとりとめなくしゃべり続ける。
それは子供の他愛ない話を母にすらできないからでもあったが、ディトラスは嫌がりもせず聞いてくれた。
ガゼボに着いて長椅子に座るころになって、ようやくしゃべりすぎたと我にかえったアネイシアは急に恥ずかしくなってうつむいたが、ディトラスはじっと彼女を見ていて小さな背中に流れる黒髪にそっと手をのばす。
女性のたしなみとして長い髪は結いあげなければならなかったが、アネイシアはまだ自分ではできないので――当然母も結ってくれなかった――左右のひと房をすくって後ろで結い背におろしたままにしていた。
ディトラスが指先で梳くと、漆黒の髪は絡まりもせずつやつやと光沢を放ちながら指のあいだを流れおちる。
彼がなにかを気にいったり称賛したりするとき、口より態度のほうが雄弁だとアネイシアはもう知っていて、喜んでもらえたのをうれしく思ったのだった。
ある日、アネイシアは内女中の使いで近隣の村へ手紙を届けていた。
近くといっても子供の足では往復にたっぷり数時間はかかる距離である。
用事をすませて村を出たときには、太陽がかたむきはじめていた。
屋敷に着いたらちょうどディトラスの午後のお茶に呼ばれる時間になるなと思いながら人けのない田舎道を歩いていると、後ろから騒がしい音をたてて走ってきた馬車がアネイシアの真横で急停止し、ディトラス本人がおりてきた。
アネイシアが使いにでたあと、彼も外出していたらしい。
「アン、こんなところでなにをしているんだ」
「お手紙を届けた帰りです」
少女の返答にディトラスはなぜか憮然として、馭者にアネイシアを乗車させるよう言ったが、男は大げさに首をふってそれを拒んだ。
貴族が使う馬車に平民が同乗するのは許されないからだ。
まだ年若い青年馭者は屋敷の者に見とがめられて上役に叱責されるのを恐れたのである。
さんざん押し問答をしたあと「じゃあ、俺がアンと歩いて帰るから、おまえは先に屋敷へ戻れ」と少年に命じられると、それにも歯切れ悪く抵抗していたが、最後には不承ぶしょう従った。
主人の命令に従っただけだという弁明がしやすいと思ったのかもしれない。
土ぼこりをまきあげながら遠ざかっていく馬車を見送って、ディトラスは口もはさめず心配そうな顔をしていたアネイシアの肩をやさしく撫でた。
「ディトラス様のお靴が泥で汚れてしまうかもしれません」
アネイシアはいつもぴかぴかに磨かれた少年の革靴が、舗装もされていない道ではすぐに傷んでしまうのではと気遣ったが、彼は頓着せず彼女の手をひいて歩きはじめる。
親にも手をつないでもらった記憶のないアネイシアは、うれしいような恥ずかしいような心地がした。
ときおり彼女を見ては微笑んでくれるディトラスを見ていると、アネイシアも知らずにこにこと笑ってしまう。
二人のあいだに会話はなかったが、少しも気まずさを感じなかった。
ずっとこうして歩いていたいと思ったアネイシアは、背後から突然太い腕に首を絞められながら抱えあげられ、悲鳴もあげられず息をつめた。
横ではディトラスも大きな男に後ろから羽交い絞めにされている。
「おい、こっちのガキはどうする」
「整った面をしていやがるが、さすがに小さすぎて売りものにもならねえ。先に殺して埋めちまおう」
二人の大男が言っているのが自分のことだとわかったアネイシアは、物騒な言葉に震えあがってパニックをおこしそうになった。
しかし次の瞬間、ディトラスがかかとで男の股間を思いきり蹴ると、にぶいうめき声とともにゆるんだ拘束からのがれ、そのまま懐剣を抜いてアネイシアを抱える男の腕に切りつけた。
「ぎゃッ」と叫んで後ずさった男からアネイシアを引きずりおろして、道向こうの林を指し示し「走れ!」と怒鳴ったディトラスに、少女はわけもわからず駆けだす。
腕を切られた男は悪態をつきながら、一瞬背を向けた少年の懐剣をもぎとり、小さな背中を肩から腰まで大きく切り裂いた。
「殺すなと言われたが、傷つけるなとは言われていないからな」
背を真っ赤に染めて膝をついた少年に男が近づいたとき、少年は懐からもう一本細い短剣を抜いて振りむきざまに男の太腿へ突きたてた。
先ほどよりいっそう大きな叫び声をあげて倒れた男を確かめる間もなく、ディトラスは渾身の力で立ちあがって林へ向かって走りだす。
男たちの怒号から遠ざかって林へ入ると、すぐの草陰にアネイシアが震えながらしゃがみこんでいた。
深青の目に涙がもりあがっているのを見て、少年は安心させるように笑む。
「ここは危ない。もっと奥へ行って隠れよう。すぐに屋敷の者がさがしにきてくれる」
アネイシアはなんとか涙をひっこめてうなずくと、二人で草をかきわけ林の奥へ進んでいった。
しかし次第にディトラスの顔色が紙のように白くなり、異常に汗がふきでてくるのを見て、そのときやっと少年が背にひどい傷を負っているのに気づく。
「ディトラス様……! ここならきっと安全です。あそこに座ってください」
アネイシアも蒼白になりながら、ディトラスの手をひき大木の根もとのうろに導いた。
素直に少年が従ったのは、気力も体力も限界だったからだろう。
アネイシアは今度こそ泣きだしながら、自分の衣の裾を裂いて傷口におしあてた。
血がなかなか止まらない。
もはや背中は血でぐっしょり濡れ、服からしたたりおちそうだった。
ディトラスはすでに意識が朦朧としているらしく、口もひらかない。
ふと草をかきわける音が遠くで聞こえ、アネイシアはびくっと全身を震わせて耳をすませた。
呼吸すらとめて集中すると、男たちの声がかすかに聞こえてくる。
それはだんだん大きくなるようだった。
ここにとどまっていては、いずれみつかってしまうかもしれない。
アネイシアはしゃくりあげそうになるのを必死にこらえ、いつも肌身離さずもっている短剣をとりだすと、自分の後ろ髪をまとめてつかんで肩の上で切りおとした。
次にディトラスの血のついた上着を脱がし自分で羽織る。
それから、生まれたときから身につけている銀のペンダントを首からはずすと、ディトラスの手に鎖を巻きつけ、チャームがよく見えるように手の上へ置いた。
こうしておけば木漏れ日の光が反射して、屋敷の人たちが早くみつけてくれるかもしれない。
しかし、それは敵にもみつかりやすくなるということに他ならず、アネイシアは自分が囮になるつもりだった。
ディトラスの上着はアネイシアには大きすぎ年格好も似ても似つかないが、林のなかはかなり薄暗く草ものび放題なので遠目にはわからないかもしれない。
どちらにせよ、アネイシアに考えつけるのはこれくらいしかなかった。
「絶対に死なないで」
少女は歯をくいしばって、横たわるディトラスに周りの落ち葉や枝をかぶせると、震える膝をなんとか立たせて静かにその場から離れた。
じゅうぶんにディトラスから距離をとったところで、草を払いながら走りだす。
少し間をおいてから男たちが追ってくるのがわかった。
心臓が破裂しそうだ。
恐怖で足が何度ももつれる。
あの男たちはいったい何者なのだろう。
ディトラスをどうにかしようとしていたのはあきらかだが、なにもかもがあまりにも突然のできごとだった。
自分につきあって歩いてくれたからこんな目にあったのだと思うと、アネイシアは自責の念で胸がつぶれそうになる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
走り続けるアネイシアの顔も手も、木の枝や葉で切り傷だらけになっていたが、気にする余裕はなかった。
背後の怒声が近くなる。
もうどれほど逃げ続けたのか、時間の感覚はすっかりなくなっている。
息があがり、膝の力が急にぬけて派手に転げた。
顔をあげたものの身体がいうことをきかず這って進もうとしたとき、がさりと音がして男が姿を現した。
下卑た笑みをうかべ「このガキ、やっと」と言ったところで、瞠目して崩れおちる。
男の首には横からまっすぐ矢が貫通していた。
荒い呼吸がおさまらないままアネイシアが矢の飛んできたほうを見ると、ディトラスの剣の師クレオンが厳しい顔で弓をかまえている。
少女はそれがわかると、ぷつりと意識を手放した。
次に目覚めると、そこは室内だった。
それも使用人部屋ではない豪奢な天蓋つきの寝台で、触れたこともないようなやわらかな白い布に包まれている。
アネイシアはなんとか身体を起こしたものの、全身が油切れでもおこしているようにきしんで重かった。
気を失う直前にクレオンを目にしたのを覚えていて、自分が助かったのはすぐに理解できたが、ディトラスがどうなったのかが気になり、広い寝台をやっとのことでおりる。
どうやらここは屋敷のなからしいと気づいて大きな扉をあけようとしたとき、前触れもなく扉がひらいて入室してきた者がいた。
アネイシアはしりもちをついて呆然と見上げると、入ってきたのはひと目で貴族とわかる壮年の紳士だ。
男はアネイシアを氷のような目で見おろし、肩上でざんばらになった黒髪をつかんで少女をひきずり立たせ、手にしていた美しい樫の木の杖で小さな身体を横殴りにした。
声をあげる間もなくアネイシアは身体が大きく浮くほど飛ばされ床に投げだされる。
「あ、あ……」
打たれた腕をおさえてうずくまる少女の前で、男は周りを焼き尽くさんばかりの怒りをこめて杖で床を打ち鳴らした。
「おまえごとき下賤の者のせいで、わしの息子が重傷を負った。使用人なら使用人らしく主人の盾となって命のひとつもさしだしてみせろ!」
男が杖をふりあげたとき、執事が駆けこんできて後ろから羽交い絞めにした。
「どうかおちついてください、旦那様。アンはディトラス様の身代わりとなって敵をひきつけ時間をかせいでくれたのです。彼女がいなければ手遅れになっていたかもしれません」
「そもそも身のほどもわきまえずディトラスに近づくから、こんな騒ぎがおこったのだ」
男は執事をおしのけて杖をふりおろした。
それはアネイシアのこめかみを強打し、勢いあまって壁に頭を打ちつける。
瞬間、耳の奥が爆発するような衝撃とともに激痛が彼女を襲った。
視界がぐわんと揺れて急激に暗くなっていく。
完全に闇に包まれる寸前、アネイシアは戸口で顔を赤黒く腫れさせた母が、憎しみのまなざしを向けて立っているのを見た。
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