「お帰りなさいませ」という聞き慣れない若い女性の声に、戦地での事後処理のことを考えていたディトラスは意識をひき戻された。
いつの間にか屋敷へ到着して、自分の足で馬車をおりていたらしい。
二十六日ぶりの屋敷には、結婚して一晩しかともに過ごさなかった妻が出迎えに立っている。
「留守中、不都合はあったか」
「ペイトンとサノッサの采配のおかげで、なんの問題もなく過ごしております」
模範的回答をしたアネイシアは髪型も装いも一分の隙なく整えられており、乏しい表情のなかで深青の瞳だけがすべてを見透かすようにディトラスへ向けられていた。
ディトラスはその目を見るたびに落胆と、理由のわからない憤りを覚える。
「ペイトン、報告を」
視線をそらして執事を呼ぶと、さしだされた銀盆に山のように積まれた郵便物を確認しながら自室へ向かった。
主人の着替えを手伝いながら執事が家内についてこまごまと報告したあと「奥様のことですが」とややためらいがちに告げた。
「重大な問題ではありませんがいくつか気になる点がありますので、旦那様にご承知おきいただければと存じます」
「なんだ」
「まず、旦那様がご不在のあいだ奥様は一度も外出をなさっておりません。旦那様を気遣って自粛していらっしゃるご様子です。それが理由かどうかはわかりませんが、一日のかなりの時間を蔵書室で過ごされています。それからもうひとつ、奥様は身近なことにはご自身がお連れになった女中しかお使いにならないので、ほかの女中に不満をもつ者がいるようです。サノッサがあとで詳しく報告いたしますが」
「そうか……」
たしかに大きくはないが、放っておくと後々不和を生みそうな問題ではある。
用意を整えて食堂へ行くと、アネイシアは先に席についていた。
食事の給仕がはじまってから「よく蔵書室を使っているそうだが」と水を向けてみる。
「おもしろいものでもみつけたか」
「ロウガーニー家の歴史やご領のことが書かれた本がありましたので、知っておいたほうがよいと思い目を通していました」
アネイシアはよどみなく答えたが、動きをとめたナイフとフォークを扱う手が、ささやかな動揺を表していた。
まさか一か月近くもそれらの本だけを読んでいたわけでもないだろうが、ディトラスはそれ以上は質問を重ねず、まったく別のことを口にする。
「そういえば先ほど父から手紙がきていて、数日のうちにこちらへ来るそうだ。まともに三人で顔を合わせる機会がなかったから、夫婦で挨拶しろということらしい」
「わかりました」
アネイシアは白い皿に美しく盛りつけられたベリータルトを見つめながら答える。
結局、彼女はそのデザートを半分以上残したまま、席を立って居間へ移っていった。
シガーをもってきた執事に、ディトラスは「アネイシアの食事の量はいつもこのくらいか」と尋ねる。
デザートだけでなく料理のコースすべてで、彼女はほとんど一皿を食べきるということがないのに気づいたからだ。
「奥様は非常に食が細くていらっしゃいます」
「……彼女についてほかに気がかりな点があるか?」
「いまのところ、特にはございません」
ディトラスは長く煙を吐いた。
執事も突然むかえいれられた夫人の扱いを決めかねているらしかった。
アネイシアに対するわだかまりはディトラスにもある。
それは夜会で初めて彼女を見たときから続いている。
結婚初夜をむかえると、そこに驚きと懐疑が加わった。
緊張をこえて恐怖すらにじませ夫となった男をうけいれながら、身体はすでに拓かれていたという事実を、彼女以外の人間は知っているだろうか。
もちろんほかに想う相手がいたとしても、まったくおかしいことではない。
しかし自由恋愛は結婚の義務を果たしたあとにするものであり、女性が未婚の身で、しかも結婚相手ですらない者に身体を許すなど常識からかけ離れた話だ。
あの貴族然としたアネイシアからは想像もできない。
それとも、そこまで身を賭して想う者がいるというのか。
だとしても、ディトラスにはどうにもできないし、アネイシアもそれはわかっているはずだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!