アルゴス子爵の次男が逮捕されたという話を友人から聞いたとき、ゼノン・ロウガーニーはいずれそうなるだろうと思っていたことが現実になっただけで興味もわかなかったが、即刻死刑になりそうだと言われれば驚かざるを得なかった。
「評判のよくない人物には違いないが、まさか不倫やたちの悪い賭博程度で斬首とは、あまりに重い刑じゃないか」
大学の法学部に在籍するゼノンがいぶかしげに言うと、同級生のニキアス・グレクはあきれた顔を彼へ向けた。
「もちろん、そんなことじゃ罪にもならない。腐っても貴族だからな。極刑の理由は麻薬を扱っていたせいだ。それもあやしげな魔術に傾倒する一派へ供給して、儀式で使用されていたらしい。それらの捜査に全面的に協力して早期の真相究明に貢献したのは、ギオス伯爵と夫人だって話じゃないか。ゼノンは本当に知らなかったのか」
「兄上が? いや、しばらく屋敷には帰っていないし、兄上にも会っていないんだ」
「じゃあ、ぜひ話をきくべきだな。事件の当事者に直接インタビューできる機会はそうそうない。今度会ったときには詳しく話をきかせてくれよな」
ニキアスは青年の背中をたたいて行ってしまった。
アルゴス子爵の三兄弟のことをゼノンは以前から知っている。
末弟が彼と同年代のため、なにかと顔をあわせる場が多いからだ。
その関係で二人の兄のことも知っていたが、次男がどうでもいいトラブルをおこしては醜聞をまき散らしているのも、よく耳に入ってきた。
ディトラスと彼らにつながりがあるとは知らなかった。
ましてや夫人が関わってくるとは。
青年は数か月前の異様な結婚式を思いかえす。
著しく出席者の少ない式の後は披露宴もなく、息のつまりそうな食事会だけで済ませられたのである。
新婦側の身内は父親しか現れず、妹のネリダも不安そうにして、いつものおしゃべり好きがすっかり影をひそめていた。
あのときの新婦の顔をゼノンは思いだせない。
ベールをかぶっていたし、終始うつむきがちだったからだ。
声すら聞いたかどうかさだかではなかった。
「たまには帰ってみるか」
友人に言われたからというわけでもなかったが、久しぶりに兄弟に会ってもいい気分になってきて、ゼノンは一度自宅へ戻った。
進学のときに大学からほど近い場所に借りたアパルトマン型の部屋で、女中二人と従僕一人をかかえている。
狭い二人部屋でなんでも自分でやらなければならなかった寄宿学校時代に比べると、いまの生活は天国だ。
ゼノンは使用人に侯爵家へ戻ることを告げ後を任せると、服をあらためて再び出ていった。
兄のディトラスはゼノンにとってそれほど近い関係ではなかった。
それでも、幼いころはよく遊んでもらった記憶がある。
三つ年上の兄は大人びてみえたものだが、二十歳になったいまでもその印象はあまり変わらない。
兄からうとんじられたりはしないものの、父が兄を後継者として非常に厳格に教育し、対照的に弟妹には関心を示さなかったのが原因で、いつのころからか見えないへだたりができたのは事実だ。
兄はゼノンと同じ大学の出身だが、進学してからも屋敷を出るのを父は許さず、毎日時間をかけて通うかたわら父の仕事も手伝っていた。
三年で卒業した後は意外にも軍務についているが、父の仕事も一部ひき継いでいるらしい。
久しぶりに帰ってきた屋敷の雰囲気が以前と違う気がして、ゼノンはしばらく玄関ホールであたりを見まわしてしまった。
彼の突然の帰宅に驚いただろう執事のペイトンが、内心をうかがわせないすました態度で出迎える。
「ネリダもこっちへ来ているのか?」
領地の本邸住まいのさわがしい妹が街屋敷にいるときは家内もどことなく浮ついた空気になるためそう尋ねてみたが、執事は静かに首をふった。
「本日はどなたもいらっしゃっておりません」
言われてみれば、たしかにおちつかないというより柔らかな雰囲気がただよっているといったほうがいいかもしれない。
違和感をぬぐいきれないまま広間でお茶を飲んでいると、まだ外出中とばかり思っていた兄ディトラスが現れた。
「まったく、帰る前にひとこと知らせを出すくらいできないのか」
「急に思いたってね。ところで、兄上がこんなに早い時間に屋敷にいるなんて珍しいじゃないか」
ディトラスは向かいのソファに腰をおろして足を組んだ。
「ついさっき帰ってきたばかりだ。だが、まあ軍務からはいずれ身をひこうと思っている。いまは忙しすぎるからな」
兄らしからぬ言葉に、ゼノンは驚いた。
父の敷いたレールから基本的にはずれることのなかったディトラスが、何度やめろと言われても続けてきたのが軍部の仕事だからだ。
「兄上は本質的に、父上とはまったくそりが合わないと思っていたよ。その主張の一端が軍勤めだと思っていたんだけど?」
ディトラスは返事をしなかったが、皮肉を含んだかすかな笑みが弟の考察を肯定している。
「どのみち最近新しい事業をたちあげたところで、両立は難しかった。いまだに新婚旅行すら行けないんだからな」
「兄上がそんなことを気にするとは思わなかった」
完全に仕事のひとつとして結婚という契約を交わしたようにみえた兄から、新婚旅行などという単語がとびだしたのはあまりに意外である。
妻となった女性は気をつかう必要のない相手で、むしろ婚姻しただけで彼女の父親からは泣いて喜ばれそうなものだ。
そういえば、とゼノンは友人の言葉を思いだす。
「小耳にはさんだんだけど、アルゴス子爵の息子の逮捕に一役買ったらしいね」
「そんな話をどこで仕入れてきたんだ」
「貴族のスキャンダルを広める手際の良さといったら、電信技手も真っ青だよね」
「時間をもてあました暇人が多すぎるんだ。――あの事件に貢献したのは、俺じゃなくアネイシアだ。事情があって犯行の証拠品を保管していたのが役立った」
ゼノンはあいづちをうちながら、一瞬アネイシアの名を失念していた。
すぐに兄の夫人だと思いだしたものの、彼の口からその名が発せられるのはなにか耳慣れない気がする。
「おおやけには伏せられたが、『奴』から大量の薬を購入していたのは王妃だ。自分の子を王太子にするため、前王妃の子を呪い殺す黒ミサで使用したらしい。ばかばかしい話だが、儀式には大物の貴族も参加していて、王妃を罪に問うと芋づる式に少なくない数の逮捕者が貴族からでてしまう。そのため日ごろから評判の良くないアルゴス子爵の次男が、すべての罪を背負うはめになったというわけだ」
「……なるほど、どうりで処刑の決定が早いと思ったよ」
呪いや黒い魔術を信仰するのは重罪である。
そこに王族が関わったとなると大スキャンダルだ。
犯人が余計なことをわめきださないうちに口を閉ざしてしまおうというのが、上層の総意に違いない。
人柱となった哀れなアルゴス子爵家は今後とり潰しとなるか、そうでなくても極めて不利な立場に追いやられるだろう。
「あの男がどうなろうと、なんの痛痒も感じはしないがな」
兄が吐きすてるように言った。
彼のそういった感情の発露はまれだ。
ゼノンは屋敷内に感じたのと同様の変化を兄にも感じた。
「ええと、そう、その事件の功労者の彼女は元気でいらっしゃるのかな」
なんとなくためらいがちに話をふってみると、ディトラスは「ああ」といま気づいたようにそっけなく答える。
「この時間は庭に出ているはずだが」
「じゃあ、あいさつをしてこよう」
ゼノンが立ちあがるとディトラスは目を向けてきたものの、一緒についてはこなかった。
ニケラツィニ侯爵家の庭園はいつも完璧に手入れがいき届いている。
ビジネスにしか関心のなさそうな父が、意外にもガーデニングを趣味にしているからだ。
とはいえ、この街屋敷はもう何年もディトラスが主人となっていて、ニケラツィニ侯爵はごくたまにしか滞在しない。
その庭園の一角に白石の建造物ができているのに気づいたゼノンは足をとめた。
石は円形に組まれており、一見して噴水とわかる。
水が通っていないし周囲も不自然に土がめくれたままなので、まだ築造途中らしかった。
兄はガーデニングには特に興味はなく、いままで庭に手を入れたことはなかったはずだ。
いったいなんの心境の変化かと不思議に思いながら横切っていった先、木陰におかれたガーデンテーブルで女性がくつろいでいた。
つばの広い帽子の下から見事な銀髪がこぼれている。
顔は隠れていたが、椅子の背にもたれることなくすっと伸びた背は凛として、本のページをめくる指先まで洗練してみえた。
結婚式のとき力なくうなだれていた物憂げな姿とは別人のようだ。
ゼノンが所在なく立っていると、女性のそばにひかえた女中が彼に気づき、主人へ耳打ちした。
女性は本を閉じて顔をあげ、ゆっくり彼のほうを向く。
青年を驚かせたのは、長い銀のまつげにふちどられた宝石のような瞳だった。
吸いこまれそうな夜空の輝きに目を奪われているうちに、彼女はこちらへ歩いてきた。
「お久しぶりです、ゼノン様」
「……結婚式以来ですね。どうぞゼノンと呼んでください」
青年は慌てて彼女の手をとり甲にキスをした。
「では私のこともアネイシアとお呼びください」
彼女はゼノンを導いて再びテーブルへ戻ると、向かいの椅子をすすめる。
「旦那様にはお会いになりましたか」
アネイシアが尋ねるあいだも、青年は彼女に見入っていた。
「ええ……先ほど会いました」
「それは旦那様も喜ばれたでしょう」
ゼノンのあからさまな視線に気づかないわけはなかっただろう、しかし彼女は穏やかな態度を保ったまま微笑をたたえて答える。
青年はゆったりと言葉をつむぐ少し低く心地よい声に耳をかたむけ、合わせて動く薄桃色の唇に不意に色香を感じてぎくりとした。
深青の瞳のなかに自分の姿が映っているのを自覚したとたん体温があがった気がする。
これはまぎれもなくひとめぼれという恋の前兆だった。
いや、それはすでにスタートを切ってしまっていたかもしれない。
彼女のなにもかもが好ましく感じられて、ゼノンは思わずテーブルにおかれた白い手をとりそうになった。
かろうじてとどまったのは、そばにひかえる女中の視線で我にかえったからだ。
恋愛事など初めてではないのに、まるで初恋におちた少年のようにどぎまぎして頭が働かない。
なにか言わなければと内心焦っていると、「大学で法学を学ばれているそうですね」とアネイシアから話題を提供してくれた。
女性にリードさせてしまった気恥ずかしさも手伝って、ゼノンは妙に大げさにうなずく。
「弁護士を目指しているんです。父上や兄上の助けにもなるでしょうから。そう、カリシャ子爵の縁者でエイルー・テオドラキスという若手の弁護士が最近名声を得ていますが、おれは彼の強引なやりかたには賛同できません。もっと事務弁護士と連携して、依頼人の話に丁寧に耳を傾けるべきだと考えているんです」
あきらかに若い女性と一対一でする内容ではないと途中で気づきながらも、しゃべり続ける口はとまらなかった。
しかし、意外なことにアネイシアはその弁護士の名を知っており、真面目に話を聞いていた。
「あなたは法廷弁護士になられると思いますが、事務弁護士の方で興味深い視点から実際の判例を解説している本があります」と言って、いくつかの名前と本のタイトルをあげてくれさえしたのである。
「ここの蔵書室にも何冊かそろっています。お役にたてばよいのですが」
「アネイシアも学校で法律を学んだのですか」
驚いて尋ねたゼノンに、アネイシアは首をふった。
「いえ、私は学校へ通ったことはありません。何人かの家庭教師の方の教えをうけたのと、手近な本を読んだ程度ですから」
彼女は強く謙遜したが、話をしていくうちに聡明な人だというのはすぐにわかった。
ゼノンはアネイシアとの会話に夢中になり、いつまでもここで話し続けていたかった。
どれほどの時間が過ぎたのか、女中がひかえめに、しかし毅然として「そろそろお食事でございます」と口をさしはさんでくるまで、彼は一度もアネイシアから目をそらすことができなかった。
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