東の空が白みはじめると、誰よりも早く起きて井戸の冷たい水で顔を洗う。
それから粗末なお仕着せに着替えて使用人たちを起こすのが、幼いアネイシアの朝一番の仕事だ。
母がこの大きな屋敷で使用人をしている。
子連れで住みこみが許されているのは領地の屋敷から離れた別邸のひとつだからだ。
母が頼みこんだとはいえ、本邸や都の屋敷だったらとうてい雇われなかっただろう。
それでも六歳の子供を主人の目に入るところで働かせるわけにはいかないので、裏方や外まわりで使用人たちの雑用をし、わずかばかりの食事と寝床を与えられていた。
母に連れられてきたのは二年前の初夏のことだ。
毎年夏からその年の終わりまでを領地屋敷で過ごすという主人は、別邸へはめったに立ち寄らず、そのため屋敷の雰囲気は緊張感も薄くおおらかだった。
ところがアネイシアと母親が働くようになっていくらもたたないうちに、主人の子息が滞在することになったのである。
屋敷じゅう大騒ぎになり母親も準備にかりだされたため、右も左もわからないアネイシアは裏庭の隅でおとなしくしているしかない。
数日後に立派な馬車でやってきたのは少年だった。
みつからないよう建物の陰からこっそりのぞいていたアネイシアは、遠目にもわかる明るい金茶の髪に、なんて綺麗なんだろうと目を輝かせる。
彼女は夜の闇を溶かしたような自分の黒髪があまり好きではなかった。
迎えられた少年は夏のあいだ別邸の主人として過ごすらしい。
彼は十歳になったばかり、長子のため父親から後継者として厳格に育てられていると使用人たちが話していた。
幼いアネイシアには難しい話はよくわからなかったが、ときおり姿をみかける若い主人は、周りの誰より大人びて威厳に満ちているように見えた。
ある晴れた日、下働きを覚えたアネイシアは厩舎の世話をする下男に頼まれて厨房で塩をわけてもらったあと、勝手口から戻ろうとして、ふと裏手の林のほうへ続く道があるのに気づいた。
ずいぶん長いあいだ人が通っていないのか、なかば獣道と化している。
しかし目をこらした先に奥に白い建物が見えたので、アネイシアは用事をすませると道をたどってみることにした。
秘密の場所へつながっている気がして冒険気分で進んでいくと、建物だと思ったのは石造りの屋根つき噴水で、同じ白石の長椅子が周りを囲むように配してある。
噴水の水はとめられて寂しい雰囲気だが、石柱にのびた野生のバラが花を咲かせていて、アネイシアはひと目でここが気にいってしまった。
それ以来、暇ができると彼女はこっそりここへ来るようになった。
気にいったというだけでなく、母にみつからないようにするためでもある。
母はアネイシアを親の義務として育ててくれたが、愛情を与えてはくれなかった。
仕事中に彼女の視界に入ると不機嫌になり、夜は口ぐせのように疲れたと言って、まともに顔も合わせないまま寝てしまう。
年相応におしゃべりをしても騒いでもひどく怒られるので、アネイシアはすっかり無口でおとなしい子供になった。
そんな彼女の貴重な息抜きの場になったのが、さびれたガゼボだったのである。
ここ数日続く爽やかな快晴の午後は、小さい子供にとってゆりかごのように心地よく眠りを誘う。
いつしか深く寝入ったアネイシアに、声をかけた者がいた。
「おい」
肩をゆさぶられて目を覚ますと、長椅子に横たわる彼女を上からのぞきこんでいるのは、この屋敷の主である少年だった。
「あっ、わ、若君」
使用人がそう呼んでいたのを覚えていてとっさに口にすると、少年は怪訝な顔をした。
「おまえは、うちで働いている者か」
「は、はい。ごめんなさい。休んでいたら寝てしまって……」
慌ててとび起きたアネイシアは主人の叱責をうけるだけではなく、母にもなにか累がおよぶのではと青ざめて謝罪する。
少年は彼女をじっと見ながら、横に腰をおろした。
「おまえの名前は?」
「母さまは、わたしをアンと呼びます」
「母親もここで働いているのか」
「はい」
いっときも視線をそらさない少年に気圧されて、アネイシアは泣きそうになりながら答えた。
「わ、若君、どうか母さまに罰を与えないでください。わたしが勝手にここへ来たんです」
「罰? ここはおまえみたいな幼児も働かせなければならないほど、人手には困っていない。母親が働いているなら、おまえは自由に過ごしていればいい」
「でも……」
アネイシアは困惑して言葉をつまらせる。
働かなければ食事と寝床が得られないのだと説明するには、彼女は幼すぎた。
少年はしばらく思案すると「アン」と初めて彼女の名を呼んだ。
「ここにいるあいだ、おまえは俺の付き人になれ。それから俺のことはディトラスと呼ぶんだ」
「ディトラス、様?」
アネイシアがくりかえすと、少年は少し沈黙してから「まあ、いいか」とうなずいた。
「付き人は、なにをすればよいですか」
初めて聞く役目に首をかしげるアネイシアに「臨時の従者みたいなものだ」とディトラスは答える。
従者は主人の身のまわりの世話をする側近だが、そもそも従者というものを知らないアネイシアの疑問はさっぱり解消されなかった。
この日以来、ディトラスが屋敷にいるときは、いつもアネイシアを連れて歩くようになった。
使用人ですらない子供を主人のそばにおくなど、本邸にいれば決して許されなかっただろう。
少年が屋敷の主という特殊な状況で、ここが田舎のごく気楽な別邸だという条件がそろっていたのが幸いしたのである。
執事や侍従に説得され、屋敷内にアネイシアを入れることはさすがにできなかったが、屋外や離れのサンルームへ行くときは必ず彼女をともなった。
使用人たちから妬みや嫌がらせをうけなかったのは、彼女が幼かったという理由に尽きる。
十歳の少年の後ろをついてまわる四歳の少女という光景は、大人の目からみれば微笑ましいばかりだ。
いや、彼女が周囲から可愛がられたのは、彼女自身の性格ゆえでもある。
ディトラスが屋敷のなかにいるときや遠方へでかけているときは、以前と変わらず使用人たちの小間使いをしてよく働くからだった。
代わりに被害をうけた者がいたとすれば、それは母親のほうだ。
うまく娘を主人にひきあわせたなとか、解雇されないように娘を貢ぎ物にしたのではなどと、陰口やときには面と向かって嫌味を言われ、肩身のせまい思いをさせられた。
いわれのない中傷による鬱憤はアネイシアへの苛立ちとなり、以前にも増して彼女を疎んじるようになっていった。
もはや母は一緒に眠っていた寝台すらも娘に配慮しなくなった。
せまい部屋に並べられた使用人たちのベッドの隅で、アネイシアはシーツにくるまり固い床で眠るようになった。
「アンは母親に似ていないな」
いつもそうするように、アネイシアをじっと見つめてディトラスは言った。
「見た目が全然違うから、侍従に聞くまで親子だとわからなかった」
母は栗色の巻き毛に明るい碧眼だが、アネイシアは少しの癖もない漆黒の髪と吸いこまれそうな深い青の目をもっている。
「髪も目も父さまに似たのだそうです」
アネイシアは気落ちして答えた。
母のことを口にするのは苦しくて悲しかった。
もしかして母は自分にまったく似ていないから、つらくあたるのだろうか。
アネイシアの様子を見て、ディトラスは少し早口で言った。
「アンの目は虹彩に金の粒が混じって夜空の果てみたいに神秘的で、ずっと見ていたくなる。髪だって黒金剛石と同じくらい艶やかで真黒くて、本当に宝石みたいだ。切らずにずっと長くするといい」
そうかな、とアネイシアは首をかたむけた。
ディトラスがいつも強い視線を向けてくるのは、見た目を気にいってくれているからなのかもしれない。
しかしディトラスのほうが綺麗だとアネイシアは思っている。
華やかな金茶の髪と、緑や茶が複雑に入り混じった柔らかいはしばみ色の目。
小さな子供の語彙力ではうまく伝えられなかったが、ディトラスを見るたび宝物みたいに見入ってしまう。
それに彼はこの屋敷の誰よりも優しかった。
母に比べれば使用人たちはずいぶん気安く接してくれたが、はた目にもうまくいっていない親子関係に介入しようとはしない。
皆、面倒を嫌って個人的な問題には見て見ぬふりをしていたのだった。
ディトラスはアネイシアを付き人にしてからというもの、頻繁に領地内を散歩したり剣の稽古を屋外の鍛錬場でおこなったりして、彼女をそばにおいていた。
貴族らしい気位の高さはあるが横柄ではなく、言葉や態度はアネイシアに対してすら配慮されている。
兄弟はいないが兄がいたらこんな感じだろうかと、少女は自然に親しみをもつようになった。
実際、ディトラスはよくアネイシアの相手をしていたといえる。
十歳ほどの年ごろなら同年代の少年ばかりで集まって騒ぐのに夢中で、六つも年下の少女など邪魔以外のなにものでもないだろう。
もちろん彼は貴族の紳士として、いくつであろうと異性に対しての礼儀というものをたたきこまれているが、それを抜きにしてもディトラスのアネイシアへの接しかたは年に似合わず大人びていた。
とはいえ彼にも思春期特有のじっとしていられないような活発さはあって、それはおおむね剣の稽古で解消されているらしかった。
剣の師匠は、ここへ移るとき同行してきた父親の知り合いの軍人で、剣術に秀でいくつもの勲章をもつ英雄だとディトラスは言う。
アネイシアからみればディトラスですら大人のように感じられるのに、二十代なかばという大きな軍人はとほうもなく遠い存在だった。
いつもそばで見学している稽古での彼の指導と剣さばきは恐ろしいほどの迫力でいっそう近寄りがたかったが、ある日稽古のあとに鍛錬場脇のパティオで三人でお茶をしたとき、意外にもにこやかに明るく接してくれたのをきっかけに、少しも彼を怖いと思わなくなった。
それだけではなく、アネイシアの身体に合わせて小さな短剣を使った護身術を教えてくれたので、ディトラスと一緒に稽古できるのがうれしくてならない。
「アンの髪と目は珍しいし、母親とはまた違う端正な顔だちをしている。ここでは人さらいもそういないだろうが、身を守るすべをもっていても損はないさ」
「怖がらせるようなことを言うな、クレオン。アン、屋敷の敷地から出なければ安全だからな」
ディトラスの忠告にうなずいたものの、使用人に頼まれればひとりで外へでかけることもある。
人さらいというのがなんなのかはあまり理解できなかったが、二人が言うように危険が本当にあるのなら、厨房からいらなくなったナイフをもらって持って歩こうかとアネイシアが考えていると、何日もしないうちにディトラスから鋼の短剣を渡されて驚いた。
甘い焼き菓子や果物をもらったことはあるが、こんな高価なものは初めてだ。
装飾の少ない実用向きの剣だが、柄にアネイシアの目の色とよく似た菫青石がはめこまれており、少しもてあます大きさと重さではあるものの、これから成長すればじきに手になじむだろう。
アネイシアは何度もディトラスに礼を言い、クレオンに手入れのやりかたを熱心に聞いて大切にしようと決心した。
夏の二か月間、アネイシアはめまぐるしく、そして充実した日々を送ることになる。
ディトラスは読書どころか午後のお茶まで外でやると言って幕屋を建てさせると、テーブルや道具を一式もちだして、雨でなければほとんど毎日そこを使っていた。
アネイシアにとってはすべてが珍しく興味深くて、ときおり相手をするように言われてお茶とお菓子をもらったときは、信じられないおいしさにほっぺたが落ちそうになったものだ。
しかし一番楽しかったのは、大人の目を盗んで二人で林の奥のガゼボで過ごす時間だった。
ディトラスが本を読んでいる横でバラの花を摘んだり、指先が果汁で真赤に染まるほどたくさんの桑の実を二人で採ったこともある。
それだけに夏の終わり、ディトラスが本邸に戻ると決まったときは本当に悲しかった。
父親から呼び戻されたらしいと使用人が噂していた。
また来年ここへ来ると約束して、少年はクレオンら近習をともなって別邸を後にした。
いつになくにぎやかだった屋敷は、主人を失って皆どことなく気の抜けたような日々がしばらく続く。
しかし屋敷の維持にくわえ、まれに客人や主人の一族が滞在するので仕事は常にあり、アネイシアの母は引き続きここで働くことができた。
屋敷にとって見目良い使用人をそろえるのは箔になるため、美しい容貌をしていた彼女にとって有利だったともいえる。
母に冷遇されながらもアネイシアはともに働き、翌年の初夏、約束どおりディトラスは再び別邸をおとずれた。
その夏は初めて出会った年のように二人でいろんな遊びをして過ごし、あるとき字を習ったことがないと言ったアネイシアのために、ディトラスが昔の教本をもってきて文字を教えてくれるようになる。
約二か月を別邸で滞在したディトラスはいくつかの教本をアネイシアにゆずってくれて、来年来るときまでに全部覚えるんだぞと笑って本邸へ戻っていった。
この二年の夏が、アネイシアの人生で最良のときだったかもしれない。
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