アネイシアの寝室をノックしたもののなんの反応もなく、ディトラスはしばらく考えたすえドアを静かにひらいた。
珍しいことに女中のマリナがいない。
午前中にすませなければならない仕事が多いため、彼女もかりだされているのだろう。
窓の半分を遮光カーテンで覆った室内は、それでも外の快晴のおかげでやわらかな薄明るさを保っている。
朝食の席につくと、女中が「奥様はお身体がおもわしくなく、お休みになっていらっしゃいます」と告げた。
それ自体はここ最近ときどきあることだったが、以前医師が言った環境の変化による疲労が原因という診断をディトラスは疑いはじめていた。
ベッドに近づくとアネイシアが眠っている。
華奢な鎖骨がくっきりと浮いていて、痩せたのは目にもあきらかだった。
初めて症状がでたとき、ディトラスが慌てた以上に彼女自身が驚き、身体が動かせないのに当惑していた。
医師の言うとおり疲れがたまっていたのでしょうと言ったアネイシアは、ディトラスに迷惑をかけたことを気にするばかりで、自身の体調そのものにはほとんど関心をはらっていなかった。
そのため病状は軽いのだろうと思っていたが、家内の仕事や社交のつきあいを減らしても、改善しないどころか徐々にやつれていく姿をみれば、他の原因に目を向けないわけにはいかない。
ディトラスは椅子をベッドのそばまでひきよせて座ると、睫毛まで銀色に彩られたアネイシアの寝顔を見おろした。
彼女が体調をくずしてからはずっと寝室をわけており、こうして眠っている姿を見るのは久しぶりだった。
というよりも、結婚翌日の朝以降アネイシアの寝顔を見た覚えがない。
ディトラスも目覚めは早いほうだが彼女はそれ以上で、しかも彼の睡眠をさまたげないよう先にベッドを出ずにいてくれているらしかった。
目を覚ますと、自分もいま起きたというようにゆっくりまぶたをあげて「おはようございます」とささやくのが彼女の気遣いだった。
こうしてアネイシアの眠る顔を見ると、起きているときの冷淡な表情ではない意外なやわらかさを感じる。
夜空の果てのような金斑の青瞳が、冷たい印象の正体なのだろうか。
しかしディトラスにとってその目の色は温かな思い出そのものだ。
貴族という身分の務めとして会ったこともない相手との結婚をうけいれながら、彼女を気にかけずにいられないのは、まさにその深青の瞳と、印象とはちがう彼女の気質ゆえだった。
ふと、アネイシアが身じろぐ。
横向いていた顔があおむけになったとき、ディトラスの目が彼女のこめかみにひきよせられた。
耳の上、髪の生え際のあたりにうっすらと残る傷跡に気づいたからだ。
普段は気にもならない古い跡だが、厳しいしつけとともに育てられた淑女にはふさわしくないものだけに、余計に目をひかれる。
気づいた事実になぜかぎくりとしたとき、規則正しい寝息をたてていたアネイシアが長く息を吐いて、それからぼんやりと目をあけた。
ゆっくりこちらを向いてディトラスと目が合った瞬間、驚愕に目を見ひらいて身体を遠ざける。
そのまま寝台の反対側から落ちそうになって、ディトラスはとっさに彼女の腕をつかんで抱きよせた。
「驚かせて悪かった」
人の寝顔を盗み見るのはたしかに無作法な行為で、すぐに謝罪したものの、彼女の過剰な反応に困惑と違和感を覚えてもいた。
つかんだ細い腕は震えており、激しい動悸が伝わってくるようだ。
「いいえ」と言ったきり、アネイシアはそのまま動かない。
ディトラスの胸にうずもれた顔は見えなかったが、やがて震えがおさまり深い呼吸がきこえたあと、彼女はぎこちなく身体を離した。
「申し訳ありません。寝呆けていたようです」
いつものとりとめのない表情が、いまはやけに疲れてみえた。
「いや、ゆっくり休むといい」
ディトラスはそっと彼女の腕を離して、重ねたクッションに背をもたれかけさせる。
「具合がよくないと聞いて様子をみにきただけだ。また少し痩せたんじゃないか」
「そうでしょうか……。自分ではあまりわからないのです」
アネイシアは自分の腕をながめながら困ったように言った。
「疲労だけが原因とは思えない。別の医師に診せてみないか」
「いいえ、それにはおよびません。近ごろしばらくは調子がよかったのです。ゆっくり回復しているのでしょう」
ディトラスは口をつぐんだ。
彼女は偽りを通そうとしている。
仕事で彼がひんぱんに家をあけるあいだ、アネイシアが何度も寝込んでいたのを、知らないとでも思っているのだろうか。
たしかにディトラスがいるときは彼女の体調もおちついているようにみえるが、彼が不在のときヴァネッサのアトリエへ出かけることが多く、何度かに一度は夕食もとれないほど疲れはて早々に就寝してしまうのだという。
彼女の体調に気を配るよう命じておいた執事の報告で、現状はディトラスも把握していた。
「ヴァネッサのアトリエへ通うのが負担になっているなら、やめてもかまわない」
ディトラスの提案に、アネイシアは再び首をふる。
「ロッシ夫人とお話するのはむしろ私にとって楽しみなのです。できるならこのまま続けさせていただけませんか」
そこまで言われては彼もそれ以上口出しはできなかった。
夫にうちあけられない悩みをヴァネッサには相談しているのかもしれない。
ディトラスがわかったと言うと、彼女は安堵したようだった。
「時間をとらせてしまってごめんなさい。これからお勤めでしょう」
気づかわしげなアネイシアの言葉を聞いているうち、彼はいつになく彼女のそばを離れがたくなった。
相手が病人だという無意識の抑制があるためなのか、いつもわきあがる行き場のない苛立ちを感じないせいかもしれない。
「いや、今日は午後から出るつもりだ。体調がいいなら、ここにお茶を用意させてもかまわないか?」
アネイシアは一瞬目をみはって、「はい」とうなずいた。
驚いた瞳の奥にちらりとみえたのが喜びだと、なぜかディトラスにはわかった。
ベッドをおりようとするアネイシアをとどめて、寝台の横に卓を置き女中に茶の準備を整えさせる。
彼女はいくらか躊躇をみせたもののベッドに身をおこしたままお茶を飲み、珍しく焼き菓子をいくつか口にした。
このところ食事どころか甘味すらほとんど食べていなかったのを知っているディトラスは、彼女もこの時間を楽しんでいるのだろうと察する。
今日は食がすすむようだなと軽く揶揄した彼に、アネイシアは恥ずかしげな顔をみせ、これが一番好きだと告白して蜂蜜のマドレーヌにそっと手をのばした。
それは昔、ディトラスが幼い少女に初めてあげた焼き菓子だった。
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