ままならない自身の心と同じように、もしくはそれ以上にアネイシアはディトラスとの生活にとまどいと苦悩をかかえていた。
隙をみせず冷静であろうと努めるほど、彼は不快をあらわにする。
二人で庭園を歩いた日、ヴァネッサ・ロッシとの関係をひそかに邪推したアネイシアの醜い嫉妬を、ディトラスはきっと察したに違いない。
おまえにそんな権利があるのかと責められているようだった。
父に多額の援助をうけたうえ再婚の身であることを隠して嫁いできたアネイシアが、夫の自由を侵していい理由はなにひとつない。
せめてロウガーニー家にとって役立つ人間であろうと努力しているが、それすら彼にとってはわずらわしいのかもしれない。
アネイシアが鬱々としていると、執事が銀の盆をもってきた。
「奥様にお手紙が届いております」
礼を言って封書の束をとりあげると、ご機嫌うかがいの便りと名刺のなかに、ヴァネッサ・ロッシの名をみつけて目をとめた。
見過ごせず封を切ると、アネイシアも知っているある貴族のサロンで展覧会をやっているので、ぜひ来てほしいという招待だった。
ディトラスではなくアネイシア個人にあてて送ってきたということは、ひとりで来るよううながしているのだろう。
それはつまり、ディトラスについて話がしたいという彼女の意志なのだろうか。
彼と今も関係は続いているのだと宣言されたら、はたして冷静でいられるか自信がない。
しかし、ディトラスのアネイシアに対する冷淡さの原因がまさにその点にあるのなら、彼女がヴァネッサと直接会い、二人のつきあいに対してなんら干渉する気はないと示してみせれば、すべてまるくおさまるはずだ。
「ペイトン、この方の展覧会にうかがいたいのですが、どなたかご一緒できる女性はいらっしゃらないでしょうか」
ひとりでは外出しないといって実際に一度も出かけなかったアネイシアの突然の心変わりに、ペイトンは内心驚いたかもしれない。
しかしそんな感情はおくびにもださず、封書の差出人の名を確認してしばらく思案したあと「旦那様の父君――大旦那様の妹君のご息女が芸術に造詣が深く、ロッシ様ともご交友があったと存じます。旦那様と同い年でいらっしゃいますので、おつきあいしやすいのではないでしょうか」
「ディトラスの従妹にあたる方ですね。では手紙を書きますから届けてください」
アネイシアは丁寧に誘いの言葉をしたためてペイトンへ託した。
返事は、なんと翌日来た――手紙ではなく、本人が訪問してきたのである。
結婚してカベラ伯爵夫人と呼ばれているソフィア・メルクーリは、少々ぽっちゃりとした体型も愛嬌といえるような、はつらつとして明るい女性だった。
「ディトラスはいないの? あらまあ、まだ軍務についているなんて伯父様と同じでゆっくり過ごせないたちなのかしらね」
執事にまくしたてているところに出迎えにでてきたアネイシアをみつけ、目を輝かせてぎゅっと手をにぎる。
「初めましてアネイシア。やっとお目にかかれたわ。信じられないほど慌ただしくご結婚なさったのに、伯父様ったら一族に披露する機会すらもうけてくださらないのだもの。ディトラスもディトラスよ。結婚は女性にとって一生に一度の大切なセレモニーだっていうのに、もっと気遣いできないものかしら」
怒涛の口上に、アネイシアはあっけにとられたまま聞いているしかなかった。
執事は慣れているのか素知らぬ顔で控えている。
なんとか言葉の切れ目をみつけて、アネイシアはようやく挨拶をはさんだ。
「初めてお目にかかります、メルクーリ夫人。突然お手紙をさしあげたので驚かれたでしょう。わざわざお越しいただきありがとうございます」
「あたくしのことはソフィアと呼んでくださいな。あなたにお会いするのを楽しみにしていたのよ。
まあまあ、なんて見事な銀のおぐしなの。それにその瞳ときたら吸いこまれてしまいそう! どうすれば肌をそんなに白く滑らかに保つことができるのかしら? あら、あなた腰がこんなに細くていらっしゃるのに、コルセットをしていないなんて信じられないわ。本当にお人形さんのよう……」
「あの、ありがとうございます、ソフィア。それでお手紙でお伝えした件ですが」
「そうだわ、ロッシ夫人の展覧会に招待されたのね。ちょうどあたくしもうかがう予定にしていたから、あなたにお誘いいただいたとき、なんてよいタイミングなのって思ったの。そうしたら直接お目にかかりたくなって、こうして来てしまったのよ」
ソフィアは陽気に笑ってふくよかな身体を揺らす。
アネイシアは気圧されっぱなしだったものの、不快ではなかった。
ソフィアの楽天的な気質が、アネイシアに余計な慎重さや警戒心を強いなかったからだ。
おそらく執事は、女主人が日々気のぬけない生活を送っているのを察して、この人選をしたのだろう。
「さあ、アネイシア。とっても急な話だけれど、あなたさえよければこのあとロッシ夫人にお会いしにいきましょうよ。それともなにかご予定があるかしら」
「いえ、予定はありませんが、これから身支度を整えていたら一時間はソフィアをお待たせしてしまいます」
「あら、そんなこと。先触れの手紙を書いてからお茶をいただいてお菓子を味わっていたら、とうにあなたのお支度なんて終わっているわ。ささ、そうと決まれば早くお行きになって! ペイトンは客間に便せんとペンをもってきてちょうだい」
ソフィアの勢いにおされて、アネイシアは一度自室へひきかえした。
いきなりヴァネッサ・ロッシに会えることになり心の準備はできていないが、かえって早くてよかったのかもしれない。
「ああ、外行きのお召しものはなにがいいでしょう。白と水色のシルクを合わせて……」
予定になかった外出で、女中のマリナは慌ただしく衣装部屋を行ったり来たりしている。
アネイシアはマリナに負担をかけてしまったのをすまなく思ったが、これから会いにいく相手が夫の恋人のひとりかもしれない女性だとはさすがに言えなかった。
優秀な女中の驚くべき腕前で、ぴったり一時間後にはアネイシアの身支度は頭のてっぺんから足先まで完璧に整えられた。
「存分に羽をのばしていらっしゃいませ。カベラ伯爵夫人は底抜けに明るい方のようですから、きっと楽しくお過ごしになられますわ」
主人が出かける気になったのをマリナは喜んでいたが、アネイシアはかろうじて微笑むことしかできない。
ただ「ありがとう」と女中をねぎらって客間へおりていった。
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